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 人名索引 てと


人名索引総目次 たちつ

テアイテトス ディオクレス ディオファントス ディクソン
ティッチマルシュ ティティウス
P.G.テイト J.T.テイト ディトキン
ディドロ ディニ ディニッツ ティマイオス
テイラー H.テイラー ディラック ディリクレ
テオドロス
デカルト B.デカルト デザルグ デデキント
テプリッツ デュガスデモクリトス デュドネ
デュ・ボア・レイモン デューラー デローネ デーン
ドイリング
トゥエトゥサントゥラーンドゥリーニュ
トドハンタートスドストエフスキー
ド・フォンスネド・ブリュインド・ボーヌ
R.トーマス トーマッセン トム トムセン
ド・モアヴル ド・モルガン
ド・ラムド・ラニー トールトルストイ
トゥルーディドルド ドルビリン
トレルファール トロッター


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テアイテトス、アテネの(Theaetetus of Athens, 紀元前415年頃-369年頃).
 ギリシャのアテネに生まれ、アテネに死す。
 キュレネのテオドロスとともにプラトンのアカデミアで研究する。 正8面体と正20面体を最初に見付けた人で、ユークリッド『原論』の 10章(無理数論)と13章(正多面体)は彼の業績を述べたものとされている。 またエウドクソスの書中の比例論も彼の業績と考えられている。
 プラトンの対話篇『テアイテトス』では,ソクラテスとテオドロスとテアイテトスが知識について論じているところが描かれている.それによると,父はアテネのスゥニオン区の人でエウプニオスと言い,また彼自身はコリントスでの戦争で傷を受け,軍中に流行した赤痢にかかって死んだという. トップ

ディオクレス(Diocles, 紀元前240-180).
 ギリシャ、エウボエア、カリストスの生まれ。
 自身の発見したシッソイドを倍積問題や角の3等分問題に応用。球を与えられた比に分割するアルキメデスの問題を解く。放物面が焦点を持つことを示したことはギリシャ人からは忘れられたが、アラブの数学には強い影響を与えた。[解II.1] トップ

ディオファントス、アレキサンドリアの(Diophantos = Diopantus, 246?-330? (200?-284?).
 アレキサンドリアに住んでいたことがあることしか分らない。他には33才で結婚し、息子が42才で死んだ時から4年後84才で死んだということが解答である算術の問題が残っており(5ないし6世紀の『古代ギリシャ詩華集』)、生没年そのものはまったくあてにならないのだが、84年間生きていただろうということにはなっている。
 『算術』全13巻。代数学の初歩と不定方程式を論じる.前半の6巻のみ現存。アラビア語を介し、1575年に初めてラテン語に翻訳された.1621年発行のバシェ・ド・メジリアク訳のラテン版訳の余白にフェルマが書き込みをする。その他多角数に関する断片が残存している.[解I.1, 文], [名3, 文], [珠2.1, 説3.9, 文] トップ

ディクソン(Leonard Eugene Dickson, 1874.1.22-1954.1.17.)
 アメリカ,アイオワ州,インディペンデンスに生まれ,テキサス州,ハーリントンに死す.
 テキサス大学卒業(1893)後,シカゴ大学でE.H.ムーアの指導で,Analytic Representation of Substitutions on a Power of a Prime Number of Letters with a Discussion of the Linear Group(素数ベキ個の文字上の置換の解析表現,線形群の議論付き)によりPh.D.取得(1896). ヨーロッパに渡り,ライプツィヒではリーと,パリではジョルダンと交流.帰国後カルフォルニア大学バークレー校の講師,E.H.ムーアの招きでシカゴ大学教授(1900-39).整数論,群論,有限体上の一般線形群の理論,数学史.『整数論の歴史』全3巻(1919-23). [名2, 文], [珠訳序, 3.1, 説3.10], [天5], [ワ1, 2, 3, 6, 8]  トップ

ティッチマルシュ(Edward Charles Titchmarsh, 1899.6.1-1963.1.18.)
 イギリス,バークシャー,ニューベリーに生まれ,オックスフォードシャー,オックスフォードに死す.
 第1次世界大戦で中断するも1922年にオックスフォード大学卒業.G.H.ハーディの下で研究.ロンドン大学(1923-29),リヴァプール大学(1929-31)を経て,1931年にオックスフォード大学に戻り,サヴィル教授職をハーディから受け継ぐ(1942).フーリエ積分論,リーマンのゼータ関数の研究.著書多数.  [名5]  トップ

ティティウス(Johann Daniel Titius, 1729-1796.)
 ドイツ,ヴィッテンベルクに死す. ヴィッテンベルク大学教授.
 太陽と惑星の距離に関する経験則を発見(1766).  [パ23, 年表] トップ

P.G.テイト(Peter Guthrie Tait, 1831.4.28--1901.7.4.)
 スコットランド,ダルキートの生まれ. ベルファースト大学数学教授,エジンバラ大学物理学教授.W.ハミルトンの弟子.
四元数の理論の単純化.行列式,関数論,級数論,整数論,確率論,力学,数理物理学,実験物理学など.   [列] トップ

J.T.テイト(John Torrence Tate, 1925-.)  アメリカ,ミネアポリスの生まれ.プリンストン大学で学位取得後(1950),3年間講師.ハーヴァード大学に36年勤務後,テキサス大学オースティン校数学科教授.
 代数幾何,代数学,整数論,群論.標数 pの局所体のガロア群の p進表現,有限体上のアーベル多様体など.テイト予想,テイト群.テイト・シャファレヴィッチ群.
 日本語の本に,J.H.シルヴァーマンとの共著『楕円曲線論入門』(足立恒雄ほか訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(1995)がある.   [名序, 3] トップ

ディトキン(Vitalii Arsen'evich Ditkin, 1910.5.2-1987.10.16).
 ロシア,モスクワ州、ヴォゴロドスコエに生まれ、モスクワに死す。
 母親は小学校教師で,父親は技師.1922年以来,モスクワに住む.電気工業大学に入学(1930),モスクワ大学物理数学部に転入(1932),卒業論文はタウバー型定理についての研究.プレスナーの推薦でモスクワ大学数学研究所の院生になり(1935),ヘヴィサイドの演算子法の物理や電気工学への応用を研究.第一期モスクワ関数解析学派に加わる.論文「微分作用素と関連した関数変換」により,スチェクロフ研究所から学位(1949).
 スチェクロフ数学研究所の近似計算部門の上級研究者になり(1943),研究の関心が関数解析から計算数学および応用数学に変わる.1948年にこの部門が新設の「精密力学および計算機技術研究所」に移管されるとともに移動し,また1955年にその部門がソ連科学アカデミーの計算センターに移管されるとともに移動し,副所長になる.死亡時まで在職.    [モ] トップ

ディドロ(Denis Didrot, 1713.10.5-1784.7.31).
 フランス、シャンパーニュ州、ラングルに生まれ、パリに死す。
 職人の子として生まれ。神学(イエズス会)で身を立てようとしてパリに行くも、科学思想に触れ、哲学・物理学・数学を学び、啓蒙思想家となる。ダランベールとともに百科全書を創始する。 [解I.1, 文] トップ

ディニ(Ulisse Dini, 1845.11.14-1918.10.28).
 イタリア、ピサに生まれ、ピサに死す。イタリア学派(微分幾何)の草分け。ピサ大学教授。ビアンキの師。実関数論。曲面論。E.ベルトラミの問題の解決。フーリエ級数の収束条件(ディニの条件)。 [解III.5, 9] トップ

ディニッツ(Jeffrey Howard Dinitz).
 アメリカ,オハイオ州立大学でPhD取得(1980).ヴァーモント大学数学・統計学科主任教授.組合せ論,グラフ理論,デザイン論.エルデシュ数は2. [天26] トップ

ティマイオス,ロクリスの(Timaius of Locri, 紀元前5世紀ごろか?).
 イタリア,ロクリスの政治家で,学者.ロクリスはイタリア半島南端に近い東海岸の都市でゼリュリオンのロクリスとも呼ばれ,ギリシャの東ロクリスの貴族たちが紀元前673年頃に建設した都市.
 プラトンの対話篇『ティマイオス−自然について』でのみ言及されていて,架空の人物である可能性もある.この書物の中で,ピュタゴラス学派の天文学・宇宙論を展開する人物として現われる.この書に初めてすべての正多面体の記述があり,それらが4大元素(地水火風)と宇宙とに擬されている.   [名17, 文] トップ

テイラー(Brook Taylor, 1685.8.16-1731.12.29).
 イギリス、ミドルセックス、エドモントンに生まれ、ロンドンに死す。
 ケンブリッジ大学、セント・ジョン・カレッジに学ぶ。解析学,力学,弾道学. ニュートンに心酔し、法律から数学・自然科学に転向。大陸ではベルヌーイ一族、イギリスではテイラーという時代があった。磁気の引力の法則を発見する実験(1715)、方程式の解を対数を使って近似する方法の改良(1717)なども。テイラー展開(1715),弦の振動の数学的研究. [解II.1-2, 4-5, 9-10, III.7, IV.4, 文], [パ6, 10, 年表], [名3, 15], [ト7], [代7], [ワ2] トップ

テイラー(Herbert Taylor).
 組合せ論.エルデシュ数は1. [天26] トップ

ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac,1902.8.8-1984.10.20).
 イギリス、グロチェスターシャー、ブリストルに生まれ、アメリカ、フロリダ、タラハシーに死す。
 物理学者。ケンブリッジで数学を学ぶ前に、ブリストル大学で電気工学を学ぶ。ケンブリッジ大学ルーカス教授(1932-69).引退後乞われて,フロリダ大学物理学教授に(1971)。輻射場の量子論(1926)、相対論的量子力学(1928)、反粒子(陽電子)の存在の予言(1930)、フェルミ・ディラック統計、場の量子論の多時間理論など。1933年、シュレーディンガーとともにノーベル物理学賞。磁気モノポールの存在の予言、重力定数の時間変化の予言はまだ確かめられていない。
 ディラックのデルタ関数,ディラック列.
 朝永振一郎・玉木英彦らによって訳された『量子力学(原書第4版)』(岩波書店)は定評のある教科書である。 [解III.9], [代8, 17, コ],[ワ8] トップ

ディリクレ(Peter Gustav Lejeune Dirichlet, 1805.2.13-1859.5.5).
 フランス帝国、デューレン(現在はドイツ)に生まれ,ハノーヴァー、ゲッティンゲン(現在はドイツ)に死す。父は郵便局長.
 ケルン大学を16才で卒業.若くして,ベルリン大学教授('28-55),ゲッティンゲン大学教授(ガウスの後任)。代数的数論(2次形式論,無理数体の整数論,単数の理論).解析的数論(算術級数定理,1837).イデアル論.、フェルマ予想の部分的解決(n=5の場合:ルジャンドルと同時に)。ディリクレ級数の収束.現代的な関数の定義,ディリクレの引き出し論法.偏微分方程式の境界値問題,ディリクレ問題、フーリエ級数論.流体力学の方程式の最初の完全な積分.
 「偉大な数学者とは盲目的な計算をすばらしいアイデアに置き換える人のことである。」
 日本語の本に『ディリクレ・デデキント 整数論講義』(酒井孝一訳・解説)現代数学の系譜5共立出版がある。 [解I.0-1, III.2-5, 9, IV.5, 文], [名3], [珠説2.2.2, 3.2.2, 3.11, 附], [代17], [天4] トップ

テオドロス、キュレネの(Theodorus of Cyrene=Theodoros of Kyrene, 紀元前470(465)-390(398)).
 キュレネ(現リビア、シャハット)に生まれ、キュレネに死す。
 プラトンテアイテトスの師、幾何学者。√3〜√17 などの無理数性を最初に証明し、ユークリッドの無理数論の元になる業績。   [解II.10] トップ


デカルト、ブランシュ(Blanche Descartes).  グラフ理論. [天32] トップ


デカルト、ルネ(Rene Descartes, 1596.3.31-1650.2.11).
 フランス、トゥレーヌ州、ラ・エー(現在ではデカルトと呼ばれている)に生まれ、スウェーデン、ストックホルムに死す。
 哲学・数学・物理学者。ブルターニュ公国の首都レンヌの議会の顧問であったジョアシャン・デカルトの3男として生まれる。 若いときから体が弱く、朝は11時までベッドに居る習慣があったが、スウェーデン女王の命令で朝の5時から寒い宮廷に出仕し、風邪をひき、こじらせて死ぬ。デカルト的二元論は強い影響力を持ち、後のライプニッツの単子論と対立。ヨーロッパ思想界を二分。オランダに長く住んだため、デカルト主義者のオランダ人が多い。
 8才のときから8年間、アンジューのイエズス会の王立学院で、古典、論理学、アリストテレスを学んだが分かったことは自分がいかに何も知らないかであり、ただクラヴィウスの書で学んだ数学だけには納得していたという。この学院の寄宿生活の中で11時までベッドにいることを許されていたのが習慣になったらしい。
 ポアチエ大学で法律の学位を得てのち(1616)、ヨーロッパを遍歴し、いくつかの軍にも属し、オランダではI.ベークマンと出会い、本格的に数学と力学を学ぶ。1623年一旦パリに戻りメルセンヌとの交流が始まる。イタリアから帰って(1625)からも落ち着き先を探していたが、1628年からはオランダに定住し、ホイヘンス、ミドルジュ、メルセンヌ、ヴァン・スホーテンらと交流。
 1649年、スウェーデン女王の招きに応じてストックホルムに行く。死を招くほどの生活環境の変化を受け入れた理由はよく分からない。公然と表明していないがG.ガリレイの見解と同じであることが知られて、プロテスタントの神学者からの迫害があリ、それを避けるためとも言われる。死後16年を経て、フランス政府の要請により、遺骨はパリに運ばれサン・ジュヌヴィエーヴ教会(現在はパンテオン)に埋葬された。
 日本語では白水社の『デカルト著作集』、中央公論社の『デカルト』(世界の名著22)があり、科学論文を含め、ほとんどの著述が翻訳されている。また『方法序説』『精神指導の規則』『哲学の原理』など種々の文庫本が出版されていて、簡単に手に入る。
 [解序, I.1-3, 5, II.1, 3, 7, III.2-3, IV.1, 3-4], [パ序, 11-12, 年表], [名1-3, 6, 9, 17, 21, 附A], [代1] トップ

デザルグ(Girard Desargues, 1591.2.21-1661.9).
 フランス,リヨンに生まれ,リヨンに死す.
 富裕な家系に生まれ,建築家で工兵将校.ラ・ロシェル要塞の攻囲に参加(1628).
らせん階段やポンプの新しい形をデザイン.メルセンヌ・アカデミーのメンバー(1641-).数学としては,射影幾何学,画法幾何学の基礎づけ. 射影幾何学はG.モンジュの弟子たちにより再発見された.
 デザルグの幾何,デザルグ構造,デザルグ配図.デザルグの定理.  [代9-11, コ] トップ

デ・ターク(Dennis DeTurk)。
 ペンシルヴァニア大学数学科教授.微分幾何,極小はめ込み.  [名23] トップ

デデキント(Julius Wilhelm Dedekind, 1831.10.6-1916.2.12).
 ブラウンシュヴァイク公国、ブラウンシュヴァイクに生まれ、ブラウンシュヴァイクに死す。
 生涯独身で、姉と暮らす。ゲッティンゲン大学で学位(1852).ガウスの弟子.しばらく母校で私講師,数年後にチューリヒ工科大学,ブラウンシュヴァイク工科大学教授,後校長(1862,1872-1894)。
 ゲッティンゲンでは,リーマンディリクレと師のガウスとの4人が互いに影響を及ぼし合ったと言われる.カントールを支えたというより、この人こそ集合論を根づかせたと言ったほうがよいかも知れない。整数論.無理数概念の体系化(デデキントの切断),算術計算の論理化,イデアルの考案.束理論の萌芽. 日本語に訳されているものには『数について』(河野伊三郎訳)岩波文庫, ディリクレ・デデキント『整数論講義』(酒井孝一訳・解説)現代数学の系譜5,共立出版(1970) がある. [解序, III.1, 3, IV.1], [代コ] トップ

テプリッツ (Otto Toeplitz, 1881.8.1-1940.10.11.)
 ドイツ,ブレスラウ(現在ポーランド,ブロツワフ)に生まれ,イェルサレム(当時イギリス統治下)に死す.
 ヒルベルトの助手,キール大学,ベルリン大学教授.1933年ナチにより免職され,1938年イェルサレムに移住.積分方程式論,無限変数の関数論,線形代数,数学史,数学教授法.テプリッツ行列.
 日本語に訳されているものにラーデマッヘルとの共著『数と図形』(山崎三郎+鹿野健訳)日本評論社(1989)がある. [珠3.1]  トップ

デモクリトス(Demokritos of Abdera, 紀元前460年頃--370年頃.
 イオニア植民地アブデラの生まれ.原子論者として有名だが,幾何学者としても優秀.
 財産を作ってから,知識を求めて世界を遊歴.エジプトには長期に滞在し,ペルシャにも行っている.インドとエチオピアにも行ったと言う人あり.学識はアリストテレスに比肩したと言われている.
 70以上の著作があったというが現存していない.デモクリトスの原子論に反対するために詳述したアリストテレスの著作と,逆にそれを信じたエピキュロスの著作(2世紀のディオゲネス・ラエルティウスによって保存された)によって内容が知られている.
 原子論を最初に主張したのは師のレウキッポスとアナクサゴラスであったし,さらに遡るもので,恐らくはピュタゴラス学派の,正多面体を宇宙の構成要素とする思想と関連していただろうと言われている.
 彼の理論によれば,世界は空虚で,その中を無数の原子が動いている.あらゆるものが原子の集まりで,水の原子は丸く,固体の原子にはギザギザがあって絡み合うという具合に,形の違いが物質の性質の違いになる. 原子の離合集散で,物質の性質は変化し,溶解や結晶化が起こって,死と再生がもたらされる.空虚の中で原子が衝突して,大規模な渦運動が起これば,新世界の創造も起こる.
 また倫理的には,決定論で,個人の自由選択は幻想に過ぎないと考えた.
 数学に関しても著作は多く,『数について』,『接線について』,『写像について』,『無理数について』などがあったというが何も残っていない.1906年に発見されたアルキメデスの『方法』の中に,デモクリトスが,「同じ底面を持つ錐が柱の3分の1の体積であること,同じ底面と高さを持つピラミッドがプリズムの3分の1の体積であることなどを述べた最初の人である」と書かれてあり,エウドクソスが証明した50年以上も前に知っていたのである.物体が原子1個の厚みを持つ薄板の集まりと考えることによって,カヴァリエリの原理に相当する考え方を持っていたようだ.ただし,無限小に関する議論については,考えることができなかったという説と,直線については無限に分割できると考えていたという説とがある.  トップ


デュガス(Pierre Dugac)。フランスの数学史家。解析学の基礎. [解III.1] トップ


デュドネ、ジャン(Jean Alexandre Eugene Dieudonnee, 1906.7.1-1992).
 フランス、リールの生まれ。
 初期ブルバキのメンバー。エコル・ノルマルで学位(1931)。レンヌ、ナンシー、サンパウロの後、ミシガン大学(1952)、ニース大学教授(1964)。位相空間論、関数解析、代数幾何、不変式論、古典群論など幅広い。数学教育の現代化や数学史にも力を注ぎ、日本語になった教科書も多い。


文献
  1. 『現代解析の基礎』(Foundations of Modern Analysis, Academic Press (New York), 1960).日本語訳は『現代解析の基礎1,2』(森毅訳,東京図書,1971).
  2. Calcul Infinitesimal, Hermann(1968).日本語訳は『無限小解析1,2』(1:丸山滋弥+麻嶋格次郎、2:宮崎浩+宮崎功訳)東京図書(1973).
  3. Elements d'Analyse, Gauthier-Villars(1968).日本語訳は『現代解析3,4 関数解析・上下』(森毅訳)東京図書(1974).
  4. デュドネ編『数学史要約』(Abrege d'Histoire des Mathematiques, 1978).日本語訳は『数学史1700-1900 I,II,III』(上野健爾+金子晃+浪川幸彦+森田康夫+山下純一訳)岩波書店(1985).
  5. Algebre Lineaire et Geometrie Elementaire, Hermann (1968).日本語訳は『線形代数と初等幾何』(雨宮一郎訳)東京図書(1971).
  6. 『人間精神の名誉のために−今日の数学』Pour l'Honneur de l'esprit Humain - Les mathematiques aujourd'hui, (1987).日本語訳は『人間精神の名誉のために−数学賛歌』(高橋礼司訳)岩波書店(1989)
 [解III.1, IV.4, 文], [ト1-2, 文], [代コ] トップ


デュ・ボア・レイモン(Paul David Gustave du Bois-Reymond, 1831.12.2-1889.4.7).
 ドイツ、ベルリンに生まれ、ドイツ、フライブルグに死す。
 ハイデルベルク大学、フライブルグ大学、テュービンゲン大学、ベルリン大学教授。積分論.積分方程式という用語は彼による。 [解III.1, 5, 文] トップ

デューラー(Albrecht Durer, 1471.5.21-1528.4.6).
 帝国自由都市ニュルンベルク(現在ドイツ領)に生まれ、ニュルンベルクに死す。
 画家・版画家。透視図法。ユークリッドを芸術の範とした。画法幾何学の基礎を与えた。その版画メランコリア(1514)の中にヨーロッパで始めて魔方陣が描かれている。角を三等分するよい近似的手続き(1525)。 [I.4, II.3, 文] トップ


デローネ(Boris Nikolaevich Delone, 1890.3.15-1980.7.17).
 ロシア,サンクト・ペテルブルグの生まれ.
 キエフ大学卒業(1913)後,大学で教える.グラーヴェの弟子で,代数学と数論.1917年の革命後,大学での教育・研究がより応用的なものであることを余儀なくされ,グラーヴェのセミナーは閉鎖された.デローネは代数の研究を続けたかったのでウクライナを離れ,ペトログラードに移る.1924年,町はレニングラードと名前が変り,レニングラード大学に勤務(1922-35).
 1921年にスチェクロフが作った物理数学研究所が,1932年に2つの部門に分かれ,数学部門はヴィノグラードフが主宰し,多くの数学者を集めた.その中にデローネもいた. また戦後(1921)再興されたペトログラード数学物理学会にも参加(1922)活躍する.1934年に,アカデミーの決定で,スチェクロフ数学研究所とレベジェフ物理学研究所に分かれる.デローネはスチェクロフ研究所の代数部門の長をしていたが,1935年にスチェクロフ研究所がモスクワに移動するのに伴いモスクワに移動する.モスクワ大学教授(1935-42).
 代数学,数論,結晶結晶の構造解析.数の幾何(中空の球の方法).数学史,特にソ連数学史.
 ロッククライマーとしても知られており,ソ連のスポーツマスターでもあった(1937).   [代コ] トップ

デーン(Max Dehn, 1878.11.13-1952.6.27).
 ドイツ,ハンブルクに生まれ,アメリカ,ノース・キャロライナ・ブラックマウンテンに死す.ヒルベルトの下でゲッティンゲン大学の学位(タイトルはDie Legendreschen S\"atze \"uber die Winkelsumme im Dreieck)を得る(1900).
 フランクフルト大学純粋及び応用数学教授(1921-35).1938年ナチのため職を追われる.1940年,スカンジナビア,ロシア,日本を経てアメリカに移住.多くの大学で教えたが,定職に至らず,1944年からブラックマウンテン・カレッジで教えるようになる.1956年にカレッジが閉鎖されるまで,職にあったプロの数学者は彼一人という劣悪な環境にあった.
 ヒルベルトの公理的幾何学の影響を受け,多面体の合同に関するヒルベルトの第3問題の解決(文献の1,2).また1907年にヒーガードと共に初めての体系的なトポロジーの教科書を書く.それまではトポロジーは位置解析学analysis situsと呼ばれていた.トポロジーに群表示の問題を導入.特に「語の問題」「同形問題」の定式化をした.その他,デーン補題,デーン手術,デーン不変量などがある.

文献
  1. 「空間的に同じ多面体について」(Ueber raumgleiche Polyeder) Nachrichten von der Konigl. Gesellschaft der Wissenschaften, Mathematisch-physikalische Klasse (1900), 345-354.
  2. 「体積について」 (Ueber den Rauminhalt), Mathematische Annalen 55 (1902), 465-478.
[天7] トップ



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と 

ドイリング(Max Friedrich Deuring, 1907.12.9-1984.12.20).
 ゲッティンゲン大学教授.代数学,代数幾何学,整数論.虚数乗法論の代数化と楕円曲線のハッセのζ関数の計算.『代数学』Algebren(1935) は多元環に関する記述が重要.
 ドイリング・シャファレヴィッチの定理・公式.ドイリング・ヘイルブロンの現象. [代コ] トップ

トゥエ,アクサル(Axel Thue, 1863.2.19-1922.3.7.)
 ノルウェー,チョンスベルグに生まれ,オスロに死す。
 クリスチャニア大学教授.S.リーの弟子.
 整数論.ディオファントス解析.ディオファントス近似におけるトゥエの方法.トゥエ系.1909年の有名な論文で,有理数に近い代数的数が有限個しかないことや,バシェ方程式のような不定方程式には有限個の整数解しかないことを示す.この一般化がトゥエ・ジーゲル(1920)・ロス(1958)の定理.語の同型問題(トゥエの問題).
 ランダウは1922年に,トゥエの定理を
私が知るかぎりもっとも重要な初等整数論の定理
と言っている.  [名3], [天4] トップ


トゥサン(Gottfried Toussaint.)
  カナダ,モントリオール,マギル大学教授.計算幾何学. [天28] トップ


トゥラーン(P\'ale(Paul) Tur\'an, 1910.8.28-1976.9.26).
 ハンガリー,ブダペストに生まれ,ブダペストに死す. フェイエールのもとで学位をとるが,ユダヤ人であるため職を得ず.1941-1944年にはハンガリーのナチの労働キャンプに収容.1949年からブダペスト大学教授.
 整数論,確率論的整数論(素数分布),複素関数論,特殊関数論,グラフ理論,確率論的群論(エルデシュとの共同研究). [天16,29] トップ

ドゥリーニュ(Pierre Deligne, 1944.10.3-). ベルギー,ブリュッセル,エッターベエクの生れ.ブリュッセル自由大学で学ぶが(1962-1966),1965/1966にはパリのエコール・ノルマル・シュペリオールに滞在.学位の準備はブリュッセル自由大学で行なうが,奨学金を得てフランスのIHESを訪れ,A.グロタンディエクと共同研究.学位はブリュッセル自由大学から(1968年11月). それからIHESの訪問研究員となり,後常任の教授となる(1970-1984).A.グロタンディエクとはザリスキの主定理の一般化,J.P.セールとはモデュラー形式のl進表現とL関数の関数等式,D.マンフォードとは曲線のモデュライ空間について共同研究.1984年にアメリカ,プリンストンの高等研究所教授に.
 1974年にヴェイユ予想(有限体上のリーマン予想)を解いたことにより,ヘルシンキのICMでフィールズ賞受賞(1978).代数幾何と代数的整数論の融合.他にもD.ヒルベルトの第21問題,ホッジ理論,ガロア表現,L級数,ラングランズ予想,代数群の表現など幅広い.  [モ体]  トップ

トドハンター,アイザック(Isaac Todhunter, 1820.11.23-1884.3.1).
 イギリスの数学者.ケンブリッジ大に勤務.確率論,数学史. 日本語の本に『確率論史:パスカルからラプラスの時代までの数学史の一断面』(安藤洋美訳,現代数学社)がある.   トップ

トス,ガボー(Gabor Toth).  ラトガース大学教授.微分幾何.極小埋めこみ.『数学名所案内』の著者.  [パ16], [名23], [珠文], [代13, コ] トップ

ドストエフスキー(Fedor Mikhajlovich Dostoevskij(Фёдор Михайлович Достоевский, 1821.10.30 - 1881.1.28).  ロシア,モスクワに生まれ,サンクト・ペテルブルグに死す.
 ロシアの小説家で思想家.モスクワの貧民救済病院の医師の次男. 当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者とも.
 第1作『貧しき人々』で批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され,華々しくデビュー(1846).、第2作の『白夜』などは酷評を受ける. その後空想的社会主義サークルに属して逮捕され,死刑判決を受けたが,処刑間際で特赦が与えられ(1849),1854年までシベリアで服役. 刑期終了後、兵士として勤務した後1858年にペテルブルクに帰還.この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へ変わる.
 『死の家の記録』『白痴』『罪と罰』『賭博者』『カラマーゾフの兄弟』などの小説や,ジャーナリストとしての仕事を集めた『作家の日記』も重要. ほとんどあらゆる作品が日本に翻訳されており,彼が日本文学に与えた影響は計り知れない。
 数学との接点はソーニャ・コヴァレフスカヤの初恋(?)の相手ということだけ.  [モ歴,伝] トップ

ド・フォンスネ(Daviet Francois de Foncenex, 1734-1799).
 フランス、トノンの生まれ。
 サルデーニャ海軍司令官、歩兵旅団長、サッサーリ総督。トリノ科学学士院会員。双曲線関数. [解I.4, 文] トップ

ド・ブリュイン(Nicolaas G. de Bruijn, 1918-).
 オランダ,ハーグの生れ.オランダ,デルフト工科大学.エルデシュ数は1. タイル張りで有名. [天8] トップ

ド・ボーヌ(Florimond De Beaune, 1601.10.7-1652.8.18).
 フランス、ブロアに生まれ、ブロアに死す。
 ド・ボーヌが生まれたころのブロアはほとんどフランスの副首都(ロアール河畔)。 ブロアの初審裁判所参与。デカルト『幾何学』への注釈や、デカルトへ提出した問題で知られる。 [解I.2] トップ

トーマス,ロビン(Robin Thomas).
 ジョージア工科大学教授.グラフ理論.4色定理の新証明の共著者の1人.  [名19], [天27] トップ@@

トーマス,トレーシー(Tracy Yerkes Thomas, 1899-1984.).
 リー群論  [ワ8] トップ@@

トーマッセン(Carsten Thomassen, 1948.8.22-).
 デンマーク,グリントシュテットの生まれ.オールス大学卒(1972).ウォータールー大学で,D.H.ヤンガーの下で学位(1976).デンマーク工科大学教授(1981).グラフ理論.  [天27] トップ

トム(Rene F.Thom, 1923.9.2-2002.10.25)
 フランス,ドゥーブ,モンベリアールの生まれ.
 エコール・ノルマル卒業(1946).ストラスブール大学教授(1954-1963),IHES教授(1964-).トポロジーで大きな業績,トム空間,トム類,コボルディズム理論,横断性定理などで,フィールズ賞受賞(1958).その後展開したカタストロフ理論の創始者としての方が知られている. トップ

トムセン(Gerhard Thomsen, 1899-.)
 ユークリッド空間の運動群が対称変換によって生成されることを用い,ヒルベルトの公理を群論的記法に書き直す(1933).  [天21] トップ

ド・モアヴル(Abraham de Moivre, 1667.5.26-1754.11.27).
 パリ近郊ヴィトリに生まれ、ロンドンに死す。ユグノー派だったためロンドンに亡命(1687)。外国人ゆえ大学に職を得られなかったが、1697年王立協会会員になる。ニュートンライプニッツの先取権争いの判定をする。後、ニュートンと親しくなる。
 スターリングの公式は彼の発見で、スターリングは改良をしただけ、と彼の本に書いてある。 カルダーノと同じで、自分の死期を予言した。ある時、睡眠時間が毎晩15秒ずつ伸びていることに気づき、等差数列を計算し、睡眠時間が24時間になるとき死ぬと予言し、まさにそのとき死んだという話が残っている。[I.4-5]トップ

ド・モルガン(Augustus De Morgan, 1806.6.27-1871.3.18).
 インド、マドラス統治機構、マドゥラに生まれ、イギリス、ロンドンに死す。
 父の中佐ジョン・ド・モルガンのインド駐在中に、第5子として生まれ、生後すぐに右目の視力を失う。生後7ヶ月で家族と共にイギリスに帰り、10才の時父を失う。体が弱く、学校時代はスポーツの仲間にも入れず、ひどいイジメに遭ったと言う。 16才の時ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学、学士にはなるが、修士になるために要求される神学の試験に強く反発し、修士になれず、そのためフェローになれないので、ケンブリッジを去る。
 1828年、新設のロンドンのユニヴァーシティー・カレッジの数学教授になる。 1831年に辞任し、1836年に再度選ばれ、1866年に再度辞任。辞任の理由は主義の問題だったという。 1866年ロンドン数学会を創立し初代会長になり、同年王立天文学協会のフェローに選ばれる。 しかし、王立協会のフェローになることもエジンバラ大学の名誉学位も拒絶している。
 マクファーレンは次のように語っている。「彼は、自分は、イギリス人でもスコットラント人でもウェールズ人でもアイルランド人でもなく、ブリトン人だと考えていた。肉体的なことの所為もあるが、彼は完全に書斎の人で、観測も実験もしなかった。選挙で投票したことはなく、下院にもロンドン塔にもウェストミンスター寺院にも行ったことがない。」
 頑にしかし、厳しく生きた人生がここにはあるようだ。
 G.ブールとともに論理代数の創始者。数学的帰納法を確立。複素数の幾何的意味つけ、普通の代数以外の代数の可能性、4色問題など。  [解IV.1], [ト附D1], [代19], [天15] トップ

ド・ラム,ジョルジュ(Georges-William de Rham, 1903.9.10-1990.10.9.)
 スイス,カントン・ヴォー,ロシュに生まれ,ローザンヌに死す.
 1925年ローザンヌ大学卒業後,1626年からパリ大学やゲッティンゲン大学で学び,1932年パリ大学で学位取得後ローザンヌ大学講師となる.後教授(1943-71),退職後名誉教授. ジュネーブ大学にも職を持つ(1936,教授(1953-1973)).
 トポロジー.ド・ラムの定理は,量子力学の粒子--波動同値性の一種のトポロジー的な形というべきもの. [ト3, 文], [代21, コ]  トップ

トール(David Orme Tall, 1941.5.15--) イギリス,ノーサンプトンシャー,ウェリングボローの生まれ.オックスフォード大学ワドハム・カレッジに入学(1960),1963年からM.アティヤの指導を受け,学位論文「群表現のトポロジー」により博士号取得(1966). サセックス大学数学科で教え(1966-1969),ウォーリック大学の数学の講師となる(1669).この時期イアン・スチュアートと数冊の数学の教科書を書く.1979年にコヴェントリー教育大学がウォーリック大学教育学部になるに際し.数学教育研究センターに移籍し,1992年に数学教育の教授となる.
 高木関数を再発見し(1982),ブラマンジェ関数と名づける.
 数学の論文も多いが,数学学習での認知心理学でも博士号取得(1986).   [解III.9, 文] トップ

トルストイ,レフ・ニコラエヴィッチ(Lev Nikolaevich Tolstoj (Лев Николаевич Толстой, 1828.9.9--1910.11.20.).
 モスクワ郊外のヤースナヤ・パリャーナに生まれ,アスタポヴォ駅で死す.伯爵家の4男として生まれ,自身も伯爵.
 カザン大学で法律と東洋言語を学ぶも,大学の教育水準に満足せず帰郷. クリミア戦争に将校として従軍.戦地での体験が彼の平和主義の背景となり,戦争描写の土台となった. 平和主義者として知られる. トルストイはロシアでの無政府主義の展開に影響を与え,インドの新聞に寄稿した「ヒンドゥー人への手紙」はマハトマ・ガンジーに影響を与え,非暴力主義への発展へと繋がった.
 主な作品には,自伝3部作(1852,54,57), 『コサック』(1863),『アンナ・カレーニナ』(1867),『戦争と平和』(1865--69),『イワン・イリイチの死』(1884),『復活』などがあり,ほとんどすべて作品が日本語に翻訳されている. 『復活』(1899)はロシア正教会の教義に触れ、破門の宣告を受け(1901),この措置は大衆の反発を招いたが,現在もこの破門は取り消されていない.
 1910年、末娘アレクサンドラを伴い家出をしたトルストイは,鉄道旅行中悪寒を感じ,アスタポヴォ駅で下車し,1週間後に死去.彼の葬儀には1万人を超える参列者があった.
 管理者もヤーナヤ・パリャーナの彼の家を訪問し,彼の墓を詣でたことがある. 墓標のない土の墓で,森のような木立の中にあった.  [モ歴] トップ

トゥルーディ(Trudi).
 不変式論
 [ワ7] トップ@@

ドルド(Albrecht E.Dold, 1928.8.5-).
 ドイツ,トリベルクの生まれ.ハイデルベルク大学卒,博士(1954).ハイデルベルク大学助手(1954-1956),講師(1958-1960),教授(1963-).プリンストン大学高等研究所助手(1956-1958).コロンビア大学教授(1960-62),チューリヒ大学教授(1962-63).IMU副会長(1995-1998).
 代数幾何(ドルド・トムの定理(1958):Sn)の無限対称積の特異複体の極小複体がアイレンベルグ・マクレーン空間K(Z, n)に同型),トポロジー(ドルドの局所ファイバー定理),ホモロジー代数(ドルド・プッペの導関手(1961)).コホモロジー作用素の2つの定義(スティーンロッドの対称群を用いる定義とアイレンベルグマクレーン空間を用いる定義)の関係を明らかにする.
 著書に『代数トポロジー講義』Lectures on algebraic topology, Grundlehren Math. Wiss. 200, Springer-Verlag, Berlin Heidelberg New York(1980).  [代コ] トップ


ドルビリン(Nikolay Petrovich Dolbilin).
 モスクワ,スチェクロフ研究所で,B.デローネの指導下で学位。スチェクロフ研究所・幾何とトポロジー部門に勤務.敷き詰め問題,離散幾何,多面体,幾何教育. トップ


トレルファール(William Threlfall, 1888-1948).
 ドイツ,ハイデルベルクに死す.ドレスデン工業大学の私講師であったとき行ったトポロジーの講義の受講者にザイフェルトがいて,以後死ぬまで友人であり,ザイフェルトが学位論文の準備をする頃からは共同研究者.
 有名で,大きな影響を与えた共著が2つある.1つは『トポロジー講義』Lehrbuch der Topologie(1934)であり,1つは『大域変分法』(1938)である.後者は難解であったモース理論の教科書であり,当時のドイツの政治状況からは危険をともなう,本の題辞にケプラーの「今日,数学の本を書くことは非常に難しい」という引用を置くことを,職を賭して主張した.
 戦後ザイフェルトによりハイデルベルクに招かれ,モースの招きで渡米中(プリンストン)のザイフェルトが帰国後に行おうとしていた共同研究の夢は.彼の死によって絶たれることになる.   [代コ] トップ

トロッター(William T.Trotter Jr.). アリゾナ州立大学.アラバマ大学で,W.グレイの下で学位(1968).アリゾナ州立大学教授.副学長.組合せ論,グラフ理論.特に離散構造の極値問題.離散幾何. [天21] トップ
  
  
  
  
  

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