TOSM三重のホーム
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ルイ14世(Louis XIV, 1638-1715.)
フランス,サン・ジェルマン・アン・レイ(離宮)に生まれ,ヴェルサイユに死す.フランス国王(1643-1715).太陽王.
フランスの侵略を恐れたマインツ選帝侯は,ルイ14世の眼をそらせようと,ライプニッツはエジプト征服をそそのかしにパリに派遣する.王との会見は実現しなかったが,ライプニッツはホイヘンスと,そして数学と知り合い,大陸の微積分学が生まれる. [パ11] トップ
ルヴェク(William Judson LeVeque, 1923.8.9-)
アメリカの人.整数論.フェルマ賞受賞(1988). [天6] トップ
ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier, 1811.3.11-1877.9.23.)
フランス,サン・ローに生まれ,パリに死す.
エコール・ポリテクニク卒業(1833).1837年から同校で教える.パリ大学天体力学教授(1846).パリ天文台長(1854-1870, 1873-).天体力学,気象学.暴風雨警報の基を作る.大惑星の位置表の作成.
1846年J.C.アダムズと独立に天王星の運動の狂いから海王星の存在を予言(師のアラゴーの示唆で計算をした).ベルリン天文台に確認を依頼したところ,依頼の手紙が着いた1846年9月23日の夜,ガレ(Johann Gottfried Galle, 1812-1910)が1時間ほどで,予言された位置から51'離れた場所で発見した.J.アダムズの計算の方が早かったのだが,観測による確認が遅れた.10月1日のロンドン・タイムズの見出しに「ルヴェリエの惑星発見!」と出てしまう.
当時ルヴェリエの同僚は
「彼はペンの先で星を見つけた.計算の力以外のどんな道具も使わずに」
と言ったという.
1855年に水星の近日点の移動がニュートンの理論での理論値より大きいことを発見.これを説明するために水星の内側に見えない星Vulcanを,また後には小惑星帯を想定し,それを探し続けた.しかし,彼の死後1915年にアインシュタインの一般相対性理論は,余分な物体を必要としない説明を与える. [パ23-24, 年表] トップ
ルーカス(Francois Edouard Anatole Lucas, 1842.4.4-1891.10.3).
フランス,アミアン(パリの北方に位置する工業都市)に生まれ,パリに死す。(フランス人なので,リュカという発音のほうが近いのだが,ルーカスという呼び方が定着してしまっている.)
アミアンのエコル・ノルマル卒業後,ルヴェリエが台長をしていたパリ天文台に助手として勤務.プロシャとの戦争(1870-1871)に砲兵隊士官として従軍,敗戦後,パリのリセ・聖ルイの,後にパリのリセ・シャルルマーニュの数学教授となる.
フィボナッチ数列の研究.ルーカス数列.素数の判定法を考案,1876年にメルセンヌ数M127= 2127-1 が素数であることを示す.コンピュータを使わずに示された最大の素数である.もちろん M127= 170141183460469231731687303715884105727 を実際に計算せずに示すのである.この素数に対するルーカス・テストは1930年にレーマーによって改良された.1877年にフェルマ数F12の約数を発見.
1883年にLucasのアナグラムであるClausの名前で,ハノイの塔のパズルを発表.また4巻本のレクリエーション数学R\'ecr\'eations math\'ematiques(1882-94)はこの分野の古典になっている.
[黄7] トップ
ルジャンドル(Adrian Marie Legendre, 1752.9.18-1833.1.10).
パリに生まれ、パリに死す。
パリのコレージュ・マザランで学ぶ。ダランベールの推薦でパリの陸軍士官学校で教える(1775-1780)。科学アカデミー(会員1783-1793)。エコル・ポリテクニク教授(1816-)。経度調査局員(1818-33)。『幾何学原論』,『整数論』,『楕円関数論』はよく読まれた。球面三角法.フェルマ予想の部分的解決(n=5の場合:ディリクレと同時に)。40年以上平行線の公準を証明しようとした。平方剰余のルジャンドルの記号,ルジャンドル多項式,ルジャンドルの微分方程式. [解I.6, II.6, 文], [名3], [珠, 説1.4.1, 2.2.5, 3.9.1, 文], [代7, 11, 14], [天2] トップ
ルドルフ、クリストッフ(Christoff Rudolff, 1500頃-1545).
シレジア、ヤウエル(現在ポーランド領ヤボール)に生まれ、オーストリア、ウィーンに死す。
ウィーン大学で代数学を学び(1517-1521)、ウィーンで数学の個人教授として生活。
1525年ストラスブールで出版した(ドイツ初の)代数学の教科書 Coss が重要で、算術、等比級数、代数計算、無理量、さらに1次および2次方程式に及んでいる。1530年にはこの本のための問題集も出版されている。現代の数学記号の原型がここにある。Coss とは未知量のことで、長い間、代数学は未知量の技法(Cossic Art)と呼ばれていた。また、平方根に対して √ を用いたのも、 x0=1 とするアイデアも彼のものである。
1552年から1615年まで、M.シュティーフェルの再版による教科書の出版が続けられ、大きな影響を及ぼしている。中でも、L.オイラーがこの本で数学を学んだことが伝えられている。 トップ
ルービン(Arthur L. Rubin)
エルデシュ数は1. [天26, 27] トップ
ルビンシュタイン(Michael Rubinstein, 1971-)
プリンストン大学で,P.サルナクのもとで学位(1998).2001年からパロ・アルトのアメリカ数学研究所員.整数論.L-関数,モデュラー多項式. [天4] トップ
ルフィーニ(Paolo Ruffini, 1765.9.22--1822.5.10).
法王領(現在イタリア領)ヴァレンターノに生まれ,モデナ公国(現在イタリア領)モデナに死す.
父は医者.1783年にモデナ大学に入学,数学,医学,哲学,文学を学び,1788年6月,哲学,内科,外科の学位を取って卒業,すぐ後数学の学位もとる.
1788年10月15日モデナ大学の解析の基礎講座の教授となる.1791年に視力低下のため教授を辞めさせられ,同年初等数学の教授となり,さらに医師免許を得る.
フランス革命の時代で,フランス軍が北部イタリヤに進駐し,ナポレオンはオーストリアと サルデーニャ王国と戦い,チザルピーナ共和国を作る.その版図にモデナが含まれ,下級議会の代議員に任命され,共和国への忠誠を誓わされるが,宗教上の理由から拒否.大学から追放され,教育を禁じられる.しかし,医師として働くことで生計.
5次方程式の代数的解法の不可能性を最初に主張し,現代的な意味ではギャップはあるが,証明を与えた.その道具はラグランジュの考察した置換の議論.ラグランジュはまだ置換の合成を考えていなかった.
ルフィーニは,置換の位数,共役性,循環置換への分解,原始元など,置換群の群論的性質を考察し,5次方程式の不可解性の証明を与えた.その証明を本にし(1799),ラグランジュにも何度も送ったが,返答がなかった.何度も証明を改良し,ラグランジュ,ルジャンドル,ラクロアなど諸方に送ったが反応がなかった.時代はまだ,方程式の不可解性を受け入れようとしていなかった.あまりに先進的だったための悲劇である.大物である程度評価したのはコーシー位で,彼はルフィーニからの刺激で,置換群を研究し,大部の本を書く(1813-15).その後,置換群を一般の群に拡張し方程式の解法にガロアが利用するときにも,まだなかなか数学界に受け入れられなかったほどである.アーベルの証明が受け入れられたのは,定式化のよさもあるが,数学界に不可解性と群の概念を受け入れる準備ができていたことが大きい.
その後ナポレオンの没落の後,1814年にルフィーニはモデナ大学長になる.1817年には応用数学講座,実用医学,臨床医学の教授にもなる.1817年にチフスが流行し,治療に当たり,自分も罹患する.その後多少よくなったが,全快することはなく,1819年に臨床医学の教授を辞任.経験に基づいて,チフスに関する論文を書く(1820). [伝] トップ
ルベーグ、アンリ(Henri Leon Lebesgue, 1875.6.28-1941.7.26).
フランス、ピカルディー、ワース県、ボーヴェに生まれ、パリに死す。
ソルボンヌの教授(1910)。集合論、測度論、積分論。数学の一般化の傾向を懸念して、「一般論に帰着すれば、数学は美しく内容のない形式になってしまい、すぐにも死ぬことになるだろう。 」と述べている。この言葉が杞憂だったことを、その後の数学の発展が示していると、本当に言えるのだろうか?
日本語の本に『積分・長さおよび面積』(吉田耕作・梅沢俊郎訳・解説)現代数学の系譜3共立出版、『量の測度』(柴垣和三雄訳)みすず書房、がある。 [解III.5, 9], [ト2-3] トップ
ルレー,ジャン(Jean Leray, 1906.11.7-1998.11.10).
フランス,下ロアール,ナント(Nantes)に生まれ,ラ・ボール(La Baule)に死す.
ナントのリセ,レンヌのリセの後.エコル・ノルマル・シュペリオールで学び,そこで学位.
1933年にアダマールのもとに留学にきたシャウダーとトポロジーと関数方程式に関する共同研究.ルレー・シャウダー次数はホモトピー不変量で,ある種の偏微分方程式の解の存在を示すのに用いられる(1934).
ルレー・シャウダーの不動点定理.
その後バナッハ空間の位相,流体力学に現われる3次元ナヴィエ・ストークス方程式の初期値問題.
ナンシー大学教授(1936)となるが,
1939年に始まった第2次世界大戦に従軍,1940年に捕虜になり,オーストリアの捕虜収容所で終戦(1945)まで過ごす.そこでは「捕虜のための大学」を組織し講師を勤める.ドイツ人に流体力学の専門家と知られるのを恐れ,収容所ではトポロジストと自称し,トポロジーの問題だけを考えるようにしたという.解放後当時の講義録として代数トポロジーの許可書を出版.
1947年にコレージュ・ド・フランス教授.層(sheaf)と連続写像のスペクトル系列を考案.1950年代には多方面の業績.時間に依存する双曲型偏微分方程式のコーシー問題の研究を始め,複素変数の偏微分方程式,それに関連して常微分方程式,一般留数問題など.
アカデミー会員(1953),アメリカ自然科学アカデミー(1965),ソ連科学アカデミー(1966),ベルギーとロンドンの王立協会員や,シカゴ大学名誉教授など.レジョン・ドヌール勲章.
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れ 
レイトン(Frank Thompson Leighton)
アメリカ,ケンブリッジ,MIT応用数学科教授,計算機科学ラボのアルゴリズム・グループ主任.計算機科学,ネットワーク理論.平行アルゴリズムなど。
[天32] トップ
レイマン(Istv\'{a}n Reiman)
ブダペスト大学.
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レイリー卿(Lord Rayleigh(本名 John William Strutt) , 1842.11.12--1919.6.30.)
イングランド,エセックス州,ランフォード・グローブに生まれ,エセックス州,ウィサム,ターリング・プレイスに死す.
父親はターリング・プレイスの第2代レイリー男爵.遠い親戚にロバートボイル.30歳で第3代男爵となる.
イートン校とハロウ校に在籍したが健康上の理由で退学.4年間をワーナー師の全寮制の学校に在籍し大学への準備をする.数学の才能の片鱗は見せるが、平均的な能力以上のものは見せなかった.1861年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学,チューターのエドワード・ラウスRouth(1831.1.20-1907.6.7)の影響で数学自体と問題を攻撃する数学的方法を選択する能力を培う.ストークスからも強い影響.
論文で影響を受けたのは1865年のマクスウェルの電磁気に関するものと,ヘルムホルツのもので,特に1860年の音響共鳴器に関する論文.1866年にトリニティ・カレッジのフェローになるが,生計のために職に就く必要がなく,科学実験設備を領地に作った.
空が青いことの正しい説明(1871).同年,50年以上保守党の指導者で30年後に首相になったArthur James Balfourの妹のエヴリン・バルフールと結婚,フェローを辞す.
大著『音の理論The Theory of Sound』の第1巻は音源の振動媒体の力学について(1877)で,第2巻は音波の伝播についてである(1878).
ナイル川下りの旅行から帰った直後に父親が死に,30歳で第3代男爵となる.裕福だったため,領地で実験を続け,高価でない設備でよい結果を挙げていった.しかし,1870年代にイギリスの農業に経済問題がおき,収入が減ってしまった.
ケンブリッジ大学の第2代キャヴェンディッシュ教授になる(1879-1884).この研究所は5年前に開設され,初代教授はマクスウェルだった.実験物理の研究所の運営やケンブリッジでの実験物理のカリキュラムを精力的に整備した.熱,電磁気,物性,光学,音響学など.マクスウェルが始めた電気の基本単位,オーム,アンペア、ボルトの正確な標準を定めるプロジェクトの完成,
1884年に経済問題が好転したので教授職を辞し,ターリングの領地での実験に戻る.王立協会のフェローに選出(1873).ロイヤル・メダル授賞(1882),協会の書記(1885),コプリー・メダル授賞(1899),会長(1905-1908).ロンドン数学会会長(1876-78),ド・モルガン・メダル授賞(1890).ケンブリッジ大学名誉学長(1908-死).英国科学振興協会会長,ロンドン王立研究所自然哲学教授(1887-1905).ミドルセックス,テディントン国立物理学研究所設立に貢献(1900).
446もの出版物.応用数学と物理学.純粋数学でもラプラス関数,ベッセル関数,ルジャンドル関数の関係.偏微分方程式の固有値問題のレイリー・リッツ法,レイリー商,レイリーの原理,線形作用素の固有値の摂動に関するレイリー・シュレーディンガー級数.
広い興味を持っており,『昆虫と花の色』(1874),『テニスボールの不規則な飛び方』(1877).『鳥の飛翔』(1883),『アホウドリの帆走飛行』(1889), 『ささやきの回廊の問題』(1910)などの著作がある.
さまざまな気体の密度を測ることから発見した,不活性ガスの元素アルゴンの単離(1895)は有名で,1904年にノーベル物理学賞授賞.その賞金でキャヴェンディッシュ研究所の拡張を行う.黒体輻射の波長分布を表すレイリー・ジーンズの公式(1900).エーテルを見つける試み(1901)がすべて成功しなかったことが,エーテルの非存在,相対性理論の根拠を与える.
進行波の論文(1879)でソリトンの研究.『弾性体の表面に沿って伝播する波について』(1885)などの研究も重要.
[伝] トップ
レヴィ,ルシアン(Lucien Levy)
ポール・レヴィ(1886--1971)の父親.エコール・ポリテクニクの試験官.幾何についての論文あり. [伝] トップ
レーウェンフーク(Anton van Leeuwenhoek, 1632.10.24-1723.8.26.)
オランダ,デルフトに生まれ,デルフトに死す.
特別な教育を受けなかったが,自らレンズを磨き光学顕微鏡を自作する.顕微鏡による観察で近代微生物学の基礎を形成する.
毛細血管の中の血液循環を視認。眼の水晶体の繊維,筋肉の原繊維と横紋,象牙と毛の構造,ワムシや多くの最近の発見など。
[パ1] トップ
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452.4.15-1519.5.2).
フィレンツェの西方ヴィンチに生まれ、フランス、アンブローズ、クローに死す。
ルネサンスの万能の天才。ミラノ,フィレンツェ,ローマ,およびフランスで活躍.
画家,彫刻家,建築家,要塞設計,軍事技術者,水力学・力学技術者.ポンプ,武器,望遠鏡.月の光が太陽の光の反射であること,月が形を変えるのは地球の影のせいで月も地球と同様の土の表面を持っていることを指摘.
透視図法について述べた『絵画論(Trattato della pittura)』の冒頭には,「数学者でない者はこの本を読んではならない」と書いてある.
「鏡のように自然を写す。」
楕円を描く機械,エリプソグラフを発明.
[解II.7], [名9, 17], [直] トップ
レオナルド、ピサの ===> フィボナッチ
レギオモンタヌス(Regiomontanus = Johannes Muller from Konigsberg, 1436.6.6- 1476.7.6).
マインツ大司教管轄区、ケーニヒスベルクに生まれ、イタリア、ローマに死す。
Konigsberg=King's Mountain=Regiomontanusというわけで、レギオモンタヌスとは出身地ケーニヒスベルクのラテン名である。「ケーニヒスベルクの男」本名ヨハネス・ミューラー、という名乗りである。数学・天文学者。
ポイエルバッハの弟子。ヨーロッパ天文学の基礎づけをする。ドイツで最初のニュルンベルク天文台を作る(1471)。
ハリー彗星を観察し(1472)、皆既月食(1457.9.3)、部分月食(1460.7.3)、皆既月食(1461.6.22)の観測もしている。
教皇シクストゥス4世(在位1471-84、スペインの宗教審問所を作り、ヴァチカンの図書館を整備し、ルネサンス文化を保護)が1475年、改暦の助言とレーゲンスベルクの大司教になるようにとローマに招聘したが、仕事を始める前に死んだ。毒殺されたとも、ペストのせいとも言う。1474年の『天体暦』には1475-1506年の間の毎日の天体の位置が記載されており、コロンブスがジャマイカでこの本に基づき月蝕を予言し、原住民を驚かせたという。 [解I.1, 4, 文], [名19] トップ
レニイ(Alfred R\'enyi, 1921.3.20-1970.2.1).
ハンガリー,ブダペストの生まれ.セゲド大学卒(1946).初め天文学を学ぶ.1950年からハンガリー・科学アカデミー数学研究所長.
確率論(レニイ検定,エルデシュ・レニイの大数の法則),整数論(レニイの概素数定理).確率論,情報理論の応用,または普及に関する著作がある.
日本語に翻訳されているものに,『数学についての三つの対話』(好田順治訳)講談社ブルーバックス272,『確率についての手紙』(好田順治訳)講談社学術文庫(1980)がある.エルデシュ数は1. [天21, 24, 31] トップ
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レーマー(Derrick Henry Lehmer, 1905.2.23-1991.5.22).
アメリカ、カルフォルニア、バークレーの生まれ。
複素係数の代数方程式の数値解法のレーマー法や擬似乱数の線形合同法などで有名。ルーカス・レーマーの素数判定法. メルセンヌ素数 2p-1 (p=521, 607, 1279, 2203) のときのフェルマ予想を計算機で解く(1952)。 [解II.10, 文] トップ
レマク(Robert Remak, 1888.2.14-?).
ドイツ、ベルリンに生まれ,ドイツ、ベルリンに生まれ,ポーランド,アウシュヴィッツ強制収容所にて死す(没月日不祥).
祖父のロベルト・レマクはプロシャに,ユダヤ教を棄教せずに教授資格を得た最初のユダヤ人で,ベルリン大学医学部教授.彼自身も教授資格を得るのに苦労する.
ベルリン大学でフロベニウスのもとで学位.ベルリン大学で短期的な講義権を得るもポストは得られず.
代数学およびトポロジー.代数的整数論.加群および有限群に関するクルル・レマク・シュミットの定理.経済への数学の応用にも関心. [代16] トップ
レン(Christopher Wren, 1632.10.20-1723.2.25).
イギリス,ウィルトシャー,イースト・ノイルに生まれ,ロンドンに死す.
建築家,天文学者,幾何学者.オックスフォード大学ワドハム・カレッジで学ぶ(1653-57).ロンドン大学グレシャム・カレッジ天文学教授(1657),オックスフォード大学サヴィル教授職(1661-73).オックスフォード大学の幾つかのカレッジや劇場の設計をする(1664-65).1666年のロンドンの大火の復興のための都市計画と建築にあたる.最も有名なものは聖ポール大聖堂.
1658年取り尽し法でサイクロイドの弧の長さを求め,ケプラーの問題に応用.ケプラーの第3法則の証明や重力の逆2乗の法則も提案.対数らせんの研究と,蛇や貝殻の形が似ていることを指摘.
1660年に始まったグレシャム・カレッジでの科学の議論の集まり(毎週)の指導者で,この集まりが1662年にチャールズ2世の勅許を得て,王立協会 'The Royal Society of London for the Promotion of Natural Knowledge' になる(会長1680-82).
[パ4, 年表] トップ
レンチ, Jr.(John William Wrench Jr., 1911.10.13-).
卓上計算機により,πを1947年には722桁,さらに808桁,1949年にはLevi B.Smithとともに, 1120桁計算する.また,1962年にはシャンクスとともに,π を1000,000桁まで計算する.
双子素数定数を 0.66168158...と評価する. [解I.4, 文] トップ
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ろ 
ロイド(E. Kaith Lloyd).
イギリス,サザンプトン大学数学科.組合せ論,グラフ理論,数学史. [天24] トップ
ロヴァース(L\'{a}szl\'{o} Lov\'{a}sz).
ハンガリー,ブダペスト,エトヴォシュ大学計算機科学科.エトヴォシュ大学で,ティボー・ガライのもとで学位(1970).組合せ論,グラフ理論.ロヴァースの傘. [天22] トップ
ロクス(Gustav Lochs, 1907-1988).
インスブルック大学で数学、物理学、天文学を学ぶ(ヴィエトリスの弟子)。インスブルック大学教授。連分数. [解I.6, 文] トップ
ローゼン(Frederic Rosen). アル・フワーリズミの『アル・ジャブルの書』の英訳(1831). [解I.1, 文] トップ
ロータ(Gian-Carlo Rota, 1932.4.27-).
イタリアの生まれ.マサチューセッツ工科大学教授.組合せ論,確率論. [天20] トップ
ロッホ(Gustav Roch, 1839-66).
ドレスデンの生まれ.ハレ大学に勤務.リーマンの弟子.リーマンの死の数ヶ月後に若くして死んでいる.
代数幾何,関数論.リーマンの1857年のある論文のテーマを発展させ,1865年のクレレ誌に掲載したものが,有名なリーマン・ロッホの定理である.
[代21-22, コ] トップ
ロバチェフスキー(Nikolay Ivanovich Lobachevsky, 1792.12.1-1856.2.24.)
ロシア,ニーズニイ・ノヴゴロド(1932-1990の間はゴーリキー市と呼ばれる)に生まれ、カザンに死す。
カザンでギムナジウムから,大学を卒業し(1807),カザン大学に務め,最後は学長になる(1827-46).晩年失明する.非ユークリッド幾何学の創始者.
初めて論文が発表されたのは,1826年2月23日で,カザン大学の集会においてであるが,原稿は公表されなかった.断片的な記述が,1929-30年の『カザン通報』でなされている。後に,J.ボヤイはこれを読み,絶望している.
体系的な記述は、1836年の『仮想幾何学』(カザン大学学術紀要)と,1835-38年の論文『平行線の完全な理論による新しい幾何学の原理』でなされいる.ガウスは,後者のドイツ語訳(1840)を読み,高く評価した.
この考えが完全に認められたのは,1868年にE.ベルトラミが,3次元空間の中にモデルとなる曲面を構成した時からである. [名13], [代12, 14-15, 17, コ] トップ
ロバート、チェスターの(Robert of Chester, 12世紀).
スペインのトレドに集まった翻訳家の一人。後、イギリスに戻る。正弦をsinus rectus と意訳した(sinusは「湾」の意味を表わすラテン語)のが、sine という用語の起源(ボイヤーの説)。『アルジャブルの書』の他に、『コーラン』のラテン語訳も重要。 [解I.4, 文] トップ
ロバートソン,ニール(Neil Robertson).
オハイオ州立大学数学科教授.グラフ理論.4色定理の簡単化. [名19], [天27] トップ
ロピタル侯爵(Guillaume-Francois-Antoine Marquis de L'Hopital, 1661-1704.2.2).
パリに生まれ、パリに死す。
侯爵。ヨハン・ベルヌーイからライプニッツ流の微積分を学んで書いた教科書は、微積分に関する史上初の教科書で、微積分の普及に大きな貢献を果たす。極限に関するロピタルの定理.
文献
- 『無限小解析』(Analyse des inifiniment petit, pour l'intelligence des lignes courbes), A Paris, de l'Imprimerie Royale(1696)
- 『解析的円錐曲線論』(Traite analysique des sections coniques)(1707)
[解II.1, 3, 7, III.6, 文], [パ序, 11, 13, 15, 年表], [天19] トップ
ロベルヴァル(Gille Persone de Roberval, 1602.8.10-1675.10.27).
フランス、サンリス(ボーヴェ近くのロベルヴァル)に生まれ、パリに死す。
14才で数学の研究を始める。フランス中を広く旅し、フェルマにも会う。
ある日メルセンヌの仲間と会い、1628年にパリに戻ってからメルセンヌの仲間と接触し、メルセンヌ・アカデミー唯一の職業数学者となる。
王立学院(コレージュ・ド・フランスの前身)教授(1634)。王立アカデミー初代会員の一人(1666)。曲線の接線を求める観点からの微積分学の先駆。運動幾何学、力の平行四辺形の概念などの静力学。ロベルヴァルの秤の発明。 [解I.3] トップ
ローラン(Pierre Alphonse Laurent, 1813.7.18-1854.9.2).
フランス,パリに生まれ,パリに死す.
エコール・ポリテクニク卒業.軍事技術者,ル・アーヴル港の拡張の監督.
1842年に,ローラン級数に関する論文で賞に応募するも,締め切りに遅れる.コーシーはその真価を認めて,入賞を奨めたがそうはならなかった. [代2-4, 7-8] トップ
ローレル、スタン(Stan Laurel, 1890.6.16-1965.2.23).
イギリス、ランカシャ、ウルヴァーストンに、俳優の子として生まれ、アメリカ、カルフォルニア、サンタ・モニカに死す。死因は心臓麻痺。本名はArthur Stanley Jeffersonである。1912年渡米し、17年に映画界に入り、26年にハーディとコンビを組んでいらい、ローレルとハーディは最も人気のあるコメディーコンビとなった。極楽コンビとも呼ばれ、ハーディが気難しい大男を演じ、ローレルが少し上品なはにかみ屋を演じ、絶妙の間合いであったという.
サイレント末期からトーキー初期に大活躍したが、1957年にハーディが癌で死んで以来演ずることを拒んでいたローレルは、3年後の1960年に「コメディー映画の分野における創造的な開拓に対して」オスカーの名誉賞を得ている。また1931年に短編賞を得た「極楽ピアノ騒動(The Music Box)」は現在ビデオで見ることができる。
[解II.8] トップ
ロル(Michel Rolle, 1652.4.21-1719.11.8).
フランス、低地オーベルニュ、アンベールに生まれ、パリに死す。
初等教育のみで裁判所判事などをしながらの独学。パリ科学アカデミー会員(1685)。J.オザナムの問題を解いた(1682)ことにより有名になり、フランスの財務長官コルベールから表彰され、1699年アカデミーからペンションを受ける。
ディオファントス解析。無限小解析の厳密さについての批判を続け、ライプニッツによる解析学の基礎づけを刺激。[解II.1, III.6, 文]
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ローレンツ(Hendrik Antoon Lorentz, 1853.7.18-1928.2.4).
オランダ,アルンヘムに生まれ,ハーレムに死す.
ライデンで学び,ライデン大学数理物理学教授(1878-1912),その後ハーレムのテイラー研究所所長.ライデン大学名誉教授として講義を続ける.
学位論文でマクスウェルの電磁気理論の細密化(1875).電子の数学的理論によりノーベル賞受賞(1902年).理論を実験で検証したゼーマンとの共同受賞である.
フィッツジェラルド-ローレンツ収縮と,1904年に導入したローレンツ変換で有名.後者はアインシュタインの特殊相対性理論の基礎となった.
『高等数学入門』という教科書もあり,解析幾何,微積分の基礎と共に自然科学への応用に意を用いた.ローレンツ群.
[代12, 15, 17, 文]
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ロンスキー(Josef Hoene de Wronski, 1778.8.23-1853.8.8).
ポーランド、ヴォルシュトインに生まれ、フランス、パリに近いヌイイに死す。
ワルシャワの幼年学校卒業後、砲兵士官。1797年陸軍大佐で退役。ドイツ哲学と数学を独学。1800年フランス市民権を得、1810年パリに移住。
広範な問題提起と哲学優位の研究姿勢が特徴である。ラグランジュの無限級数の扱いを批判し、ロンスキアンを係数とする級数展開の理論を展開する。
ロンスキアンの名前は、1882年にトーマス・ミューア(1844.8.25-1934.3.21)が命名した。[解II.8] トップ
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