TOSM三重のホーム
『解析教程』.『微分トポロジー講義』.
『数理解析のパイオニアたち』.
『数学名所案内』.
『数論の3つの真珠』.
『代数学とは何か』.
『黄金分割』.
『天書の証明』.
『数学の最先端 21世紀への挑戦3』
『シンメトリー』
『微分のはなし』
『古典群:不変式と表現』
『直線と曲線 ハンディブック』
『数学者列伝』
『面積・体積・トポロジー』
『微分のはなし』
『積分と微分のはなし』
人名索引 ほ
人名索引総目次 は ひ ふ へ
トップへ
ほ 
ポアソン(Simeon Denis Poisson, 1781.6.21-1840.4.25).
フランス,ロアレ県,ピティヴィエに生まれ,ソー(パリの近く)に死す.
父の希望で初め軍医になる教育を受けたが,数学を志し,フォンテーヌブローの中央学校(1796),2年後エコール・ポリテクニークに学ぶ.1799年には差分方程式に関する論文を書く.師のラプラスとラグランジュに認められ,卒業後直ちに母校で教えるようになる(1802-1808).パリ大学教授(1809-),経度局員(1808-).1820年には教育組織の最高行政官になり,保守的な政府から科学を守るために尽力.
天体力学(月や惑星の理論),静電気・静磁気力学,弾道学,流体力学,ポテンシャル論,定積分,フーリエ級数,偏微分方程式,変分法,級数論,差分方程式,微分幾何学,確率論,統計学.
ベッセルと独立にベッセル関数を発見.曲面の曲率.ポアソン過程,ポアソン分布,ポアソンの法則(大数の法則),ポアソン比(弾性論),ポアソン定数,ポアソン方程式,ポアソン核.ポアソン積分,ポアソン和,ポアソン括弧.
「彼の唯一の情熱は科学であり続けた.彼はそのために生き,そのために死んだ.」
文献
- 『力学について』Treatise on Mechanics (1811, 1833)
- 『熱の数学理論』Mahtematical Theory of Heat (1835)
- 『空気中の投射体の運動』Movement of Projectiles in Air (1835)
- 『確率論研究』Recherche sur la probabilite des jugements.... (1837)
- 「引力理論の方程式に関する1つのコメント」(1813)
- 「回転楕円体の引力について」 (1835)
[代1, 15, 19]
トップへ
ポアンカレ、アンリ(Henri Poincare, 1854.4.29-1912.7.17).
フランス、ナンシーに生まれ、パリに死す。
エコール・ポリテクニク(1873-)の後鉱山学校に学び,C.エルミートに師事し、1879年に学位取得。カーン大学(1878-1881),パリ大学(ソルボンヌ)解析学(1881-1885),数理物理学および確率論教授(1886-1895),天体力学教授(1895-死)。微分方程式論,保型関数論,ポテンシャル論,確率論,非ユークリッド幾何,天体力学。代数トポロジーと多変数関数論の創始者。最後の万能の人と呼ばれる。啓蒙活動も重要。
日本語の本は『常微分方程式-天体力学の新しい方法-』(福原満州雄+浦太郎訳・解説)現代数学の系譜6、共立出版(1970)があり、岩波文庫には『科学と仮説』『科学と方法』『科学の価値』『科學者と詩人』『晩年の思想』がある。
[解II.6, III.9] トップへ
ポアンソ(Louis Poinsot, 1777.1.3-1859.12.5).
フランス,パリの生まれ.
エコル・ポリテクニク卒(1972).リセ・ボナパルトの数学教授(1804-09).帝国総視学官.後,エコル・ポリテクニクの解析学および力学教授.経度局天文学者(1808).静力学や星形多面体.ポアンソの立体.『静力学入門』 [黄6] トップへ
] (1803)
ポイエルバッハ(Georg Peurbach, 1423.5.30-1469).
オーストリア、ポイエルバッハに生まれ、ウィーンに死す。
数学・天文学者。レギオモンタヌスの師、ウィーン大学教授。1456年のハリー彗星を観察。『正弦表』、『惑星の新理論』(1474)、『食表』(1514)など、死後にレギオモンタヌスが補って刊行。 [解人, 文] トップへ
ボイカーズ(Friz Beukers).
オランダ,ユトレヒト大学. [天6] トップへ
ホイットニー(Hassler Whitney, 1907.3.23-1989.5.10.
アメリカ,ニューヨークに生まれ,スイス,ダン・ブランシュ山(4357m,マッターホルン北西の山)に死す.
エール大学卒業後,ハーバード大学,プリンストン高等研究所(1952).トポロジー,特に多様体論.微分可能トポロジーの創始者の1人.埋めこみ定理,シュティーフェル--ホィットニー類. [ト1-2, 文] トップへ
ホイヘンス、クリスティアン(Christiaan Huygens =Christiani Hugenii Zulichenmii, 1629.4.14-1695.7.8).
オランダ、ハーグに生まれ、ハーグに死す。
物理学・数学・天文学者。デカルトと親交のあった父(政治家)の影響で、デカルトを学ぶ。光の伝播に関するホイヘンスの原理。ガリレイを尊敬しガリレイを越えることを1つの目標とした。航海時代に入り、海上で経度を決定する方法が時代の最大の問題の1つであった。その方法として、正確な時計を作ることに大きな関心が寄せられ、サイクロイドを用いた等時の振り子時計の(実作を可能にする)理論を作り、特許を得た(1656)。しかし、実際に航海に使用するには安定性が不十分で、ゼンマイを使ったものがイギリスの時計師によって作られそちらが主流となる。ホイヘンスの動機のほとんどは時計製作にあり、そのための理論を構築していったのだが、実用上は代替物のほうが実用的で、成功したとは言いにくい。しかし、そのために整備した理論が後世に大きな影響を与えている。ホイヘンスのレムニスケート.
焦点距離3.5mの望遠鏡を弟とともに作り,1655年土星の月のタイタンを発見,自転周期が約16日であると観測.1659年,7mの望遠鏡で土星の環の構造を観測し,公表.それまで環は「土星の腕」と呼ばれていて土星にくっついていると思われていた.
ニュートンにも会って好意を持ったというが、光の理論で粒子説を唱えるニュートンに対し、波動説を唱えている。
日本語に訳されたものはたとえば、『ホイヘンス』科学の名著II期10,朝日出版社を参照。
文献
- 『物体の運動について』(De Motu Corporum, 1656)
- 『土星の体系』(Systema Saturnium,1659)
- 『振り子時計』(Horologium Oscillatorum, 1673)
- 『光についての論考』(Traite de la Lumiere,1678)
[解I.4, II.1, 3, 7, 人], [パ序, 1, 3, 5, 11, 13-16, 24-25, 30, 附2, ノート, 年表] トップへ
ボイル(Robert Boyle, 1627.1.25-1691.12.30.)
アイルランド,ウォーターフォード州,リズモア・キャッスルに生まれ,イギリス,ロンドンに死す.
イートン・カレッジで学んだ(1635-39)後,12歳のとき家庭教師とともにヨーロッパ旅行をした際,G.ガリレイを読む.イギリスのドーセットに戻って実験科学や道徳の著作をする.
1656年からオックスフォードに住み,フックと共同研究する.理想気体を記述するボイルの法則はフックが発見したもので,1661年の著作の附録に述べたもの.
1661年の『懐疑的な化学者』においてアリストテレスの四大元素の理論に反駁し,物質は色々な基本粒子から合成されたものという考えを提出している.
王立協会の設立メンバー.デカルト思想を受けて,化学を機械論的思想の中に捉えること,そのために数学的な科学として構築するというプログラムを提案した.ニュートンなど以降の科学者に大きな影響. [パ1, ノート, 年表] トップへ
ホヴァタル(Va\v{s}ek Chv\'{a}tal).
カナダ,ウォータールー大学で学位(1970).アメリカ,ニュー・ジャージー州立大学ラトガス校計算機科学科教授.グラフ理論.現在「旅行するセールスマン問題」に関心 [天28, 30, 32] トップへ
J.ボールウェイン(Jonathan Michael Borwein, 1951-.).
スコットランド,聖アンドリューズの生まれ.ピーターの兄.西オンタリオ大学卒業(1971),オックスフォード大学ジーザス・カレッジで博士号取得(1974).カナダ,バーナビー,サイモン・フレイザー大学,数学統計学教室,実験構成数学センター. 非線形最適化理論,関数解析,計算機利用の整数論.1980年代初めに弟とともに,ベイリーが1986年にπの世界記録(2936万桁)を作ったときの主計算に使った4次の収束の公式と,検証計算に使った2次の収束の公式を発見. [名2], [天20] トップへ
P.B.ボールウェイン(Peter B. Borwein).
スコットランド,聖アンドリューズの生まれ.カナダ,バーナビー,サイモン・フレイザー大学,数学統計学教室教授.
2進数におけるπの任意桁を計算可能にするBBPアルゴリズムの式(ベイリー=P.ボールウェイン=プラウフの式)を発見した(1995).実験数学,円周率の計算とホームページを運営. [名2], [天20] トップへ
ホーキング(Stephen W.Hawking, 1942.1.8-).
イギリス、オックスフォードの生まれ。
量子力学を宇宙論に結びつけ、アインシュタイン以来と呼ばれる、イギリスの天体物理学者。ケンブリッジ大学ルーカス教授(1980)。一般相対性理論,重力理論,理論天体物理学,数理物理学.ホーキング・ペンローズの定理.ブラックホールからの熱輻射.
筋萎縮性側索硬化症という難病を知性の力で克服し続けるその姿は人を勇気づけずには措かない。 [解II.1, 文] トップへ
A.N.ボゴリューボフ,アレクセイ・ニコラエヴィッチ(Aleksei Nikolaevich Bogolyubov, 1911.3.25-.)
ウクライナ,ネジンの生まれ.数学者で理論物理学者のN.N.ボゴリューボフの弟.
ハリコフ大学卒業(1936),教授(1971).ウクライナ科学アカデミー歴史学研究所自然史技術史部門(1962-74),ウクライナ科学アカデミー数学研究所(1974-).
数学史,力学史.『ソヴィエト数学史』(キエフ,1966-77),『ソヴィエト数学会の動向(1917-66)』. [パ:ノート] トップへ
N.N.ボゴリューボフ,ニコライ・ニコラエヴィッチ(Nikolai Nikolaevich Bogolyubov, 1909.8.21-1992.2.13.)
ロシア,ニジニー・ノヴゴロドの生まれ.14才から,N.M.クルイロフ指導のウクライナ科学アカデミー数理物理学講座ゼミナールに参加.1925年同アカデミーの大学院に入学を許可される.理学修士(1928),数学博士(1930).キエフおよびモスクワ大学教授(1936-50).スチェクロフ研究所(1949),所長(1965).核研究総合研究所(1956),所長(1965).1963年より,ソ連科学アカデミー数学部長.
数理物理学,解析学,非線形力学の近似理論.統計力学.散乱理論.場の量子論.超流動理論.超伝導理論.微分方程式,関数解析.常微分方程式のクルイロフ・ボゴリューボフの平均化法.
著書も多く,日本語にも何冊か翻訳されている. [代コ] トップへ
ポゴレロフ(Alexei Vasilievich Pogorelov(Алексей Васильевич Погорелов), 1919.3.2-2002.12.17).
ソ連ベルゴロド州カローチャに生まれ,ロシア,モスクワに死す.
ハリコフ大学で学び,N.E.ジュコーフスキー空軍大学校卒(1945).勤務はハリコフ大学(1947--),ウクライナ低温物理工学研究所(1960--).学位はモスクワ大学で,ニコライ・エフィモフとA.D.アレクサンドロフの指導の下で,凸曲面の幾何に関して取得(1948).ロシア科学アカデミー会員(1976).
凸体の幾何学,ヒルベルトの第4問題,高次元ミンコフスキー問題,モンジュ・アンペール方程式に関する諸著作は外国語にも翻訳され,それらの分野での標準的教科書となった.
幾何諸分野の大学生向けや中学生用の教科書を多数執筆..[モ歴] トップへ
ポーサ(Lajos Po\'{s}a).
ハンガリーの人.[天21] トップへ
ボーズ(Satyendra Nath Bose, 1894-1974).
インド,カルカッタに生まれ,カルカッタに死す.理論物理学者で数学者.カルカッタ大学に学び,1916年から教鞭.ダッカ大学(1921-45),カルカッタ大学(1945-56).
電磁放射の気体的特性に関するアインシュタインの量子力学理論の発展.素粒子の集合状態に関する統計モデル(ボーズ・アインシュタイン統計(ディラックの命名)).その著『プランクの法則と光量子仮説』Planck's Law and the Hypothesis of Light Quanta (1924)をアインシュタインに送り,それを見たアインシュタインがドイツ語に訳して,雑誌 Zeitschrift f"ur Physik に掲載させる.
この理論をアインシュタインが発展させ,光量子が認知されるようになる.
[代17] トップへ
ホステン(Serkan Ho\c{s}ten, 1969.1.2-).
コーネル大学でPhD(1997). サンフランシスコ州立大学数学科助教授.組合せ論,代数幾何.[天21] トップへ
ポッセ(Konstantin Aleksandrovich Posse, 1847.10.28-1928.8.24).
ロシア、ノヴゴロド、ペトロフスク村の生まれ。
サンクト・ペテルブルグ大学教授(1883)。解析学・関数論を研究。教科書多数。 [解II.6] トップへ
ボット(Raoul Bott, 1923.9.24-) .
ハンガリー,ブダペストの生まれ.ハーバード大学教授.トポロジー,関数解析.K理論,ベクトルバンドル,ボット周期性. [名20] トップへ
H.ホップ(Heinz Hopf, 1894.11.19-1971.6.3.)
ドイツ,ブレスラウ(現在はポーランド,ブロツワフ[Wroclaw])に生まれ,スイス,ツォリコン[Zollikon](チューリヒの南東に位置し,チューリヒ湖北岸の町)に死す.
ベルリン大学で学位(1925).1931年よりチューリヒ工科大学教授.代数的トポロジー,微分幾何学の位相的側面.ホップ代数,ホップ不変量. [名21, 23], [ト5-8, 文] トップへ
ホッホシルト(Gerhard Paul Hochschild, 1915-)
ドイツの人.1941年プリンストン大学でPhD,指導者はC.シュヴァレーで,「半単純代数と一般微分」という学位論文.代数のコホモロジーを計算するようにS.アイレンベルグに示唆される.カリフォルニア大学バークレイ校教授.リー群,代数群,ホモロジー代数.ホッホシルト(コ)ホモロジー.群のコホモロジーについての,ホッホシルト・セールの基本完全系列.ホッホシルト・スペクトル系列.『リー群論』は影響力のある教科書. [代コ] トップへ
ボーデ(Johann Elert Bode, 1747.1.19-1826.11.23.)
ドイツ,ハンブルクに生まれ,ベルリンに死す.
ベルリン天文台長(1786-1825).ベルリン天文学雑誌創刊(1774).ドイツ天体暦を創刊(1779).ティティウスが1766年に発見した経験則を発表し,今日むしろボーデ則と呼ばれている.ハーシェルの発見した惑星をUranus(天王星)と命名. [パ23, 年表] トップへ
ホーナー(William George Horner, 1786--1837.9.22.)
イギリス,ブリストルに生まれ,バースに死す.
ブリストルのキングスウッド学校に学び,1800年14歳で同校の副校長に,1804年に校長になる.1809年にはバースに自分の学校を設立.死後は息子のウィリアムが経営を引き継ぐ.
代数方程式の数値解法についての論文を王立協会に提出(1819.7.1).その数年前にイタリア数学会の懸賞問題に応募して類似の解法を得ている.もちろん13世紀の秦九韶『数書九章』に同等の事実が知られていることはヨーロッパには知られていなかった.
ホーナー法の名前が高いのは,ド・モルガンが自著の多くの場所でホーナーの名を引用したことによる.
[微] トップへ
ボネ(Pierre Ossian Bonnet, 1819.12.22-1892.6.22).
フランス、モンペリエに生まれ、パリに死す。
エコールポリテクニク(1838年入学)と同時に土木学校に学ぶ。土木技師となるが、数学を研究するため辞職。エコールポリテクニクに職を得(1844)、のちソルボンヌ大学教授(1878)。級数論、微分幾何学、変分学を研究。ガウス-ボネの定理。 [解III. 6], [ト6, 文] トップへ
ホフライター(N.Hofreiter). 積分表.[解II.4, 文] トップへ
ボホナー(Salomon Bochner, 1899.8.20-1982.5.2).
オーストリア・ハンガリー帝国クラクフ(現在ポーランド領)に生まれ,アメリカ,ヒューストンに死す.
クラクフとベルリンで学び,ワルシャワ大学で取得した学位(1921)は,複素解析関数の直交系に関するもの.ハラルド・ボーアとはコペンハーゲンで,G.H.ハーディとはオックスフォードで,リトルウッドとはケンブリッジで共同研究する.そのほとんどはゼータ関数に関するもの.
1924年から1933年はミュンヘン大学で講師,調和解析に関する仕事したが,それは以降の超関数理論に発展する.1933年ドイツを逐われ,アメリカに移住し,プリンストン大学に停年まで勤める.
この時期は特にフーリエ級数の総和法を研究し,関数解析にも業績.ボホナー積分.ボホナー・フェイエールの方法.複素関数論でボホナー・マーティン積分.
1時期フォン・ノイマンとも共同研究をする.著書にW.T.マーティンとの共著『多変数間数論』,『フーリエ積分講義』,『調和解析と積分論』(1955)などがある.
1960年代には数学史や数学哲学にも興味を示し,日本語では『科学史における数学』(村田全訳)みすず書房(1970)がある.
[天19] トップへ
ホーム(Finn Holme) [天6] トップへ
ホメロス(Homeros,'Ομηροζ)
紀元前8世紀後半頃活躍.古代ギリシアの伝説的な詩人.出身がイオニア地方であることは,使われている言語が主にイオニア方言から想像される.
古代ギリシア語の発音では「ホメーロス」の方がより正確である。
古代ギリシアの文化と教養の多くは彼の詩に源を持ち,「西洋文学の父」とも言われ,現代までも大きな影響を与えている.
二大英雄叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』はヘクサメトロス(六脚律)と呼ばれる韻律で書かれている.
近代になって作者がホメロスであることに疑念が呈されてたが,この2つの間に大きな言語的・文芸的な区別は存在しない.
2つの詩の原型はある個人によって、それ以前の口承文学を引用しつつ、創造されたものという説が有力.
他に、『キュプリア』『アイティオピス』『小イーリアス』『イーリオスの陥落』『帰国物語』『テーレゴニアー』が伝統的にホメロス作と見なされてきた。『ホメロス讃歌』と呼ばれる神々への讃歌33編はホメロスの作品ではない. [モ歴] トップへ
ポーヤ(ポリア),ジョルジュ(George Polya, 1887.12.13-1985.9.7.)
ハンガリー,ブダペストに生まれ,アメリカ,カルフォルニア,パロ・アルトに死す.
エトヴェシュ・ローランド大学,ブダペスト大学で学ぶ.最初法律を学ぶも倦み,言語学と文学に転じ,哲学を理解するために数学を学び,結局数学で学位取得(1912).ゲッチンゲンに行き、ヒルベルトやワイルに会う.A.フルヴィッツの世話でチューリヒ大学に務める(1914-40).
1924年にはイギリスで,G.H.ハーディやリトルウッドと共同研究をし,その成果が『不等式』(1934)という本になる.
1940年にアメリカに亡命.ブラウン大学,スミス・カレッジ(1942-46)を経て,スタンフォード大学教授(1946-53).複素解析(整関数の位数,ディリクレ級数の零点,ポーヤのピーク列),級数論(ファブリの空隙定理の一般化(1929)と最良性(1942),自然境界),数論,組合わせ論(ポーヤの計数定理),確率論(分布のフーリエ変換に着目,乱歩,ポーヤ型分布),天文学など業績は幅広い.
古代エジプト時代から知られていた「平面結晶群は17種である」ことの数学的証明を与えた(1924).
数学の普及にも力を注ぎ,問題の解き方に関する著書は有名で日本語にも訳されている.
「もしも問題を解くことができなければ,解くことはできないより易しい問題があります.それを探しなさい.」
文献
- 『いかにして問題をとくか』(How to solve it (柿内賢信訳,丸善,1954)
- 『数学の発見はいかになされるか:1機能と類比,2発見的推論(そのパターン)』(柴垣和三雄訳,丸善,1959)
- 『数学の問題の発見的解き方』(柴垣和三雄+金山靖男訳)みすず書房(1964)
- 『不等式』Inequalities , with G.H.Hardy and Littlewood, Cambridge Univ.Press(1934, 第2版は1952)
- 『数理物理における等周不等式』Isoperimetric inequalities in Mathematical physics, with G.Szego, Princeton Univ.Press(1951).
- 『解析学の問題と定理』Aufgaben und Lehrsatze aus der Analysis, vols I and II, with G.Szego, Princeton Univ.Press(1925).
[名10], [代コ], [天16,17] トップ
ボヤイ,ファルカシュ(=ボルフガング)(Farkas Bolyai, 1775.2.9-1856.11.21.)
数学者かつ詩人で,ガウスの友人。ヤーノシュの父.
ゲルウィーンと独立に,等積な多角形は分割合同であることを示した.
学生時代,ガウス(2人ともケストナーの弟子)とともにユークリッドの第5公準を証明しようとしたが果たせず,ガウス自身は,それが証明できないこと,つまり非ユークリッド幾何が成立することを知っていたらしい.息子もまた取り組もうとしていることを告げられたときも,止めるように忠告している. [天7] トップへ
ボヤイ,ヤーノシュ(Janos Bolyai, 1802.12.15-1860.1.27.)
ハンガリー,コロスヴァール(現在はルーマニアのクルージュ・ナペカ)に生まれ,マロスヴァラヘリー(現在はルーマニアのティルグ・ムレス)に死す.
父ファルカシュの教育で,ヤーノシュは13歳までに微積分をマスターしており,さらにヴァイオリニストとしての教育も受け,ウィーンで演奏もしている,早熟の天才の一人である。剣士としても舞踏家としても有名であった.酒も煙草もコーヒーすら飲まず,中国語やチベット語も含めた9カ国語を操ったという.
父の影響で,ユークリッドの第5公準の証明を試み,非ユークリッド幾何を発見.
非ユークリッド幾何のまとまったものとしての初めての叙述はヤーノシュのもので,父の幾何の教科書(1832)の附録として(ロシア語で)出版されているが,広く受け入れられるに至らなかった.ガウスはこの附録を読んで,ファルカシュへの手紙で,最大級の賛辞を送っている.非ユークリッド幾何が認められるようになるのはロバチェフスキーの著作がドイツ語で出版された時(1840年)以降である.
また,複素数を実数の対として厳密に構成した. [名13] トップへ
ポラック,ヘンリー・O(Henry Otto Pollak, 1927.12.13-)
オーストリア,ウィーンの生まれ.ハーヴァード大学でPhD取得(1951). 1951年からベル研究所に勤め,数理統計研究センター所長.解析学,関数論,確率論,数学教育. [天8] トップへ
ポラック,リチャード(Richard Pollack)
ニューヨーク大学,クーラント研究所教授.離散数学,計算幾何学,計算機を使う代数幾何. [天9] トップへ
ボーリン(Karl Petrus Teodor Bohlin, 1860-?.)
スウェーデンの天文学者.ストックホルム天文台長. [パ附1, ノート] トップへ
ホール(Philip Hall, 1904.4.11-1982)
イギリス,ロンドンの生まれ.
ケンブリッジ大学卒,後教授.群論.時に有限群論.部分群の研究とヒグマン(Donald Gordon Higman)とのp可解群の研究から,単純群の研究でも重要な貢献.普遍可算局所有限群の導入や準単純群の類の構成.結婚定理も有名.
日本語の本には『群論 上下』(金沢稔+八牧宏美訳,数学叢書10, 13, 吉岡書店),『組み合わせ理論』(岩堀信子訳,数学叢書15, 吉岡書店)などがある. [天22] トップへ
ボール(K. Ball)
[天6] トップへ
ボルスク(Karol Borsuk, 1905.5.8-1982.1.24).
ポーランド,ワルシャワに生まれ,ワルシャワに死す.ワルシャワ大学に入学当時,ヤニシェフスキ,マズルキーヴィッツ,クラトフスキ,シェルピンスキなどによるトポロジーのポーランド学派が盛んに活動していた.ワルシャワ大学で修士(1927),29年から同大学で教え始める.博士はマズルキーヴィッツの下で,レトラクト理論の創出で得る(1930).
当時ポーランドの第2の数学センターであったリヴォフ大学を訪問したときウラムと知り合い,共同研究を始める.
代数トポロジー,特に安定ホモトピー論.組み合わせトポロジー,微分幾何,シェイプ理論(1968年にこの概念を生む).ボルスク・ウラムの定理,ボルスクの問題.絶対近傍レトラクトやコホモトピーの概念を導入.
[天14] トップへ
ボルチャルト(Carl Wilhelm Borchardt, 1817.2.22-1880.6.27).
ドイツ、ベルリンに生まれ、ルデルスドルフ(ベルリン近郊)に死す。
ベルリン大学でディリクレのもとで学び(1836),1839年からケーニヒスベルク大学に移り,ベッセル,F.ノイマン,ヤコビのもとで学ぶ.学位はヤコビの指導下で,非線形微分方程式論をテーマに取得.
1846−47年にはパリに行き,エルミートやリウヴィルなどと会う.
ワイエルシュトラスの友人。
『テータ級数の性質から導かれる楕円関数論(Theorie der elliptischen Functionen aue der EIgenshaften der Thetareihen abgeleitet)』はヤコビの1835/36年の講義をまとめたもの.2重周期関数に関するリウヴィルの理論をまとめてクレレ誌に発表.
1848年からベルリン大学で教え、のち教授.アーベル積分,楕円関数論.惑星の永年摂動,またグラフ理論の先駆も.
『クレレ誌』の編集をクレレから受け継ぐ(1856-1880)。ヤコビ全集の編集を始めたが、業半ばに死す。 [解文], [天24] トップへ
ボルチャンスキー(Vladimir Grigor'evich Boltyanskii, 1925.4.26-.).
ソ連,モスクワの生まれ.モスクワ大学卒(1948),教授(1959).
ヒルベルトの第3問題に関連した研究.トポロジー,サイバネティックス,常微分方程式の最適制御理論への応用,動的計画法の基礎づけ,数学教授法,問題解法の心理学など.
日本語の本に『図形の等積と分解合同』(木村君男+銀林浩訳),『トポロジー入門』(エフレモヴィチと共著,山崎昇+松野武訳)(ともに数学新書、東京図書)や,ポントリャーギンらとの共著の『最適制御の数学理論』などがある.
[天7] トップへ
ボルツァ(Oskar Bolza, 1857.5.12-1942.7.5).
ラインプファルツ(現在はドイツ),ベルグラーベルンに生まれ,ドイツ,フライブルク・イム・ブライスガウに死す.1873年にフライブルクに落ち着くまで家族は南ドイツのあちこちに移動.
ベルリン大学(1875-)では,ヘルムホルツとキルヒホッフに物理を学んだが(1876-1878),1878年の夏にシュトラスブルクの実験実習で自分にあっていないと感じ,純粋数学に転向.シュトラスブルク大学ではクリストッフェルとライエ(Reye),ゲッティンゲン大学でH.A.シュヴァルツ,1879年にはベルリン大学でワイエルシュトラスの変分法の講義を聴き,生涯の研究方向を定める.
卒業後フライブルクのギムナジウムで教えながら,超楕円関数に関する研究をするもグルサに結果も先行され,方法も優越されて悩む.ベルリン大学に戻り,クロネッカーとフックスとともに働き始めるが,F.クラインと連絡をとってから,彼の元で博士論文を準備するためゲッティンゲンに移り,超楕円積分の簡約と4時の変換群との関係についての研究で学位(1886).ベルリン時代に友人となったマシケとともにクラインのポスドクの研究者になる.この頃、ドイツで大学に職を得るほどの才能hがないのではと悩む.
1887年にイギリスに行って英語を磨き,1889年にアメリカに移住.ジョンズ・ホプキンス大学、クラーク大学で教鞭.高度な数学を教えることを要求されない環境で,ドイツに帰ろうと思っていた矢先,1892年に開学したシカゴ大学に,E.H.ムーアに誘われ、マシケを推薦して,3人で新しい数学研究と教育のシステムをアメリカで確立.学位論文の発展となる研究を次々とアメリカの雑誌に発表.1904年発刊の『変分法講義』は古典となり,1961年に再刊される.
1908年のマシケの死により住みにくくなったアメリカから,ドイツに戻る(1910).フライブルク大学の名誉教授になり(1910-1933),教育と研究を継続.シカゴからは生涯「不在の数学教授」という称号を与えられ,1913年には一度講義のためにシカゴに戻っている.
関数論,積分方程式,変分法(ボルツァの問題),コントロール理論など.
[伝] トップへ
ボルツァーノ(Bernardus Placidus Johann Nepomuk Bolzano, 1781.10.5-1848.12.18).
オーストリア・ハプスブルク家領(当時ハプスブルグ・ロートリンゲン家のヨーゼフ2世が神聖ローマ帝国の帝位にあった)ボヘミア、プラハに生まれ、ボヘミア、プラハ(現チェコ共和国領)に死す。
プラハ大学神学・哲学教授。数学的業績の多くは死後の1862年以降に出版。
日本語の本には『無限の逆説』(藤田伊吉訳)みすず書房(1978)がある。 [解II.1, III.0-1, 3, IV.1] トップへ
ホルムボー(Bernt Michael Holmboe, 1795.3.25-1850.3.28).
ノルウェー、ヴァングに生まれ、クリスチャニア(現在はオスロ)に死す。
牧師の息子として生まれ、クリスチャニアの大聖堂学校を卒業。短い軍役の後天文学者C.ハンスティーンの助手となり(1815)、母校の教師となり(1818)、そこでアーベルに数学を教える。アーベルの大学の学費を援助。
後、クリスチャニア大学の講師になるが(1826)、職がなくて困っていたアーベルがつく可能性のあるポストだったことから、非難する人もいたが、アーベルはそんな感情を持たず、固い友情で結ばれていた。
アーベルの死 (1829)後『アーベル全集』を編集(1839)。
1834年にクリスチャニア大学の数学教授になる。 [解III.7] トップへ
ボレリ(Giovanni Alfonso Borelli, 1608.1.28-1679.12.31).
イタリアの人.フィレンツェとローマで学ぶ.G.ガリレイの弟子.メッシナー大学,ピサ大学の哲学と数学の教授.物理学,天文学,数学.『復興されたユークリッド』(ピサ,1658)で第5公準の証明を試みる.比例の一般論.ヴィヴィアーニと同時期にアラビア語からアポロニウスの『円錐曲線論』を訳す. トップへ
ボレル、アーマン(Armand Borel, 1923.5.21-.)
スイス,ラ・ショー・ド・フォンの生まれ.スイスとアメリカの2つの国籍を持つ.パリ大学理学博士(1952).プリンストン高等研究所教授(1957-1993).代数幾何,リー群,代数群,代数トポロジー,複素多変数関数論など.著書も多い.
[代コ] トップへ
ボレル、エミール(Felix Edouard Justin Emile Borel, 1871.1.7-1956.2.3).
フランス、中部ピレネー、アヴェロン、サンタフリクに生まれ、パリに死す。
幼い頃から数学の才能を発揮,1889年には,エコール・ノルマル・シュペリオールとエコール・ポリテクニクに一番で合格したが,エコール・ノルマルに入学.卒業(1893)後リール大学に勤め,一年後学位を取得し,4年後にエコール・ノルマル教授(1896-1920),校長(1911-20).彼のために新設されたソルボンヌ大学関数論講座の教授(1909-41)。アンリ・ポアンカレ研究所長(1928-死).政治家でもあり、共和社会党の領袖で、下院議員(1924-36) ,海軍大臣(1925-40)にも。ヴィシー政権に逮捕・拘留の後レジスタンス運動に.
関数論、測度論、確率論,ディオファントス近似。ゲームの理論(1921-27),特にフォン・ノイマンより早く戦略のゲームを定義.
ボレル集合、ボレル測度など,ルベーグと並んで測度論を通して近代解析学の推進者.ハイネ・ボレルの定理.ボレル部分群など。
日本語の本に『改訳 確率と生活』(平野次郎訳)文庫クセジュ91,『素数』(芹沢正三訳)文庫クセジュ272,白水社(1967)がある.
[解III.9, IV.1-2, 文], [代7] トップへ
ポンスレ(Jean Victor Poncelet, 1788.7.1-1867.12.22).
フランス,ロレーヌ,メス(Metz)に生まれ,パリに死す.
モンジュの弟子.ナポレオンのモスクワ遠征に参加し,クラスノイの戦いで捕虜となり,獄中で本もなく記憶だけで
「最初幾何や解析幾何の再構成をしようとしたが,教えられた数学の細部はすべて頭の中から蒸発してなくなり,基本的な原理だけがはっきりと残っていた.」
そして,円錐曲線の射影によっても変わらない性質という思索を追及.極と極線の関係から双対性の萌芽,(複素)射影幾何学を作り出す.
フランスに帰国後,メスに戻り工兵将校として勤務.射影幾何の論文をパリ・アカデミーに提出するも,審査役のコーシーが,「連続の公理」に納得せず,学者としての道が順調に開けたわけではなかった.
しかし,メスでの仕事の関係で,物理・数学を工学に応用する点での思索が深まり,後にフランスの物理教育の在り方を変えた.具体的にもタービンや水車の効率を上げることに貢献.
[伝]
トップへ
ポントリャーギン(Lev Semyonovich Pontryagin, 1908.9.3-1988.5.3).
モスクワに生まれる。
14才で失明するも母の助けを借りて勉学を続ける。
モスクワ大学を卒業(1929),1935年モスクワ大学教授。1931年以降ソ連科学アカデミーの研究所にも所属。
学生のとき,師のP.S.アレキサンドルフの双対定理の一般化の証明(1932),位相群論の研究。位相幾何学,特にホモトピー論で活躍。ポントリャーギン類・指標・空間など。
かって,彼の仕事を読んでいたとき,彼の数学の特異な感性を、「目明きに見えない障壁の向こう側が,彼には見えるようだ」と友達と話し合ったことを思い出す。
A.A.アンドローノフと,振動論や制御理論に関る常微分方程式の研究をする。
最適制御過程の理論を確立。あるとき,ヨーロッパの学会に出てきて,ミサイルが目標に到達できるかどうかというテーマの講演をしたことがある。そのとき聴衆だったA.グロタンディエクが,彼の軍事協力の姿勢を強く非難したが,「ああ,でも役には立たんのですよ」と答えて,論争にならなかったというエピソードがある。
日本語の本には『連続群論』(岩波書店),『常微分方程式』(共立出版)のほか,中等教育用の教科書のシリーズ(森北出版)もある。 [ト序, 3, 7, 文], [代17, コ], [ブ50] トップへ
ボンベッリ(Rafael Bombelli, 1526.1.20-1572.5.5).
イタリア、ボローニャに生まれ、恐らくはローマに死す。
メルフィの司教ルフィーニ(Alessandro Rufini)に仕えた技術者。大学教育は一切受けず、技術者・建築家のP.F.クレメンティによって教えられる。『代数学』(1572,1929)はルネサンス・イタリアの代数学の集大成。複素数の加法・乗法の規則を初めて記述。 [解I.2, 6, 文] トップへ
トップに戻る。