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 人名索引 ふ


人名索引総目次    
フーファインマンファトゥーファノ
ファルティングスファン・ケーレンファン・デル・ヴェルデンファン・デル・ポル
ファン・デル・ポルテンファン・ルーメン
フィスクフィフテンゴルツフィボナッチ
フィンスラーフェラーリフェルフルストフェルマ
フェルマンフェルミフェンケルフォイエルバッハ
フォメンコフォン・シュタウトフォントネルフォン・ノイマン
フックフッペルトフックスプトレマイオス
ブニャコフスキーフビニ
フュルステンベルグフュレディフョードロフ
フライブラヴェプラウフR.ブラウワー
L.H.J.ブラウエルブラウンカー卿ブラーエ,ティコブラシュマン
プラトンブラフマーグプタプラマーフラムスティード
ブラントフランチェスカ,ピエロ・デラブラントン
フーリエブリオスキブリカールブリソン
ブリッグスブリースコルンフリードリヒ2世プリューファー
プリングスハイム
ブールフルヴィッツプルタークブルバキ
ブルン
プレイフェアフレーゲフレシェフレドホルム
フレネルフレンケルフロイデンタールフロベニウス
A.フンボルトW.フンボルト


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フー(Sze-Tsen Hu(胡世木貞), 1914-. ) トポロジスト,特にホモトピー論. 日本語の本には『ホモトピー論』(三村護訳,現代数学社,1994)がある. [ト7, 文]  トップ

ファインマン(Richard Phillips Feynman, 1918.5.11-1988.2.15.)
 アメリカ,ニュー・ヨークに生まれ,カリフォルニア,ロス・アンジェルスに死す.
 MIT卒(1939).プリンストン大学博士(1942).第2次大戦中は原爆計画に参加,プリンストン大学(1941-42),ロスアラモス(1943-45).戦後コーネル大学理論物理学教授.カリフォルニア工科大学教授(1950).
 量子電磁力学におけるくりこみ理論で,朝永振一郎,J.S.シュヴィンガーとともにノーベル賞受賞(1965).量子力学に,ファインマン図形と経路積分による計算法を導入.クォーク理論の萌芽(パートン).  ファインマン図形,ファインマンの規則,ファインマン(の経路)積分,ファインマン測度.
文献
  1. 『ファインマン物理学講義』Feynman Lectures on Physics(19).日本語訳はR.P.ファインマン +レイトン+サンズ『ファインマン物理学 5冊』岩波書店.
  2. 『量子電気力学』Quantum Electrodynamics (1961).日本語訳は,(19 ).
  3. 『素過程の理論』The Theory of Fundamental Processes (1961).日本語訳は,(19 ).
  4. 『物理法則の性格』The Character of Physical Law , MIT Press, Cambridge, Mass. (1965).日本語訳は,『物理法則はいかにして発見されたか』(江沢洋訳)ダイヤモンド社(1983).
  5. 『QED:光と物質の奇妙な理論』QED: The Strange Theory of Light and Matter , Princeton Univ. Press (1985). 日本語訳は,『光と物質の不思議な理論−私の量子電磁力学』(釜江常好+大貫昌子訳)岩波書店(1987).
  6. Quantum Mechanics and Path Integrals, with A.R.Hibbs(1965). 日本語訳は, ファインマン +A.R.ヒブス『ファインマン経路積分と量子力学』マグロウヒル(1990).
  7. R.P.ファインマン+モリゴーニ+ワーグナー 『ファインマン講義 重力の理論』(和田純夫訳)岩波書店
  [代コ]  トップ

ファトゥー(Pierre Joseph Louis Fatou, 1878.2.28-1929.8.10.)  フランス,ロリアンに生まれ,ポルニシェに死す。パリの高等師範学校卒(1901).実関数論(特に級数を使うもの),ルベーグ積分論(ファトゥーの補題),複素関数論. [天23]  トップ

ファノ(Gino Fano, 1871.1.5-1952.11.8.)  イタリア,マントバに生まれ,ヴェローナに死す.
 トリノ大学で,セグレのもとで学び,カステルヌーヴォに会う.ゲッティンゲンでF.クラインに会う.のち,トリノ大学でカステルヌーヴォの助手になり,のち射影幾何学および画法幾何学教授.1938年ナチの迫害でスイスに亡命する.1946年からはアメリカとイタリアで教職.
 射影幾何および代数幾何.ファノ多様体,ファノ面,ファノ図式など.有限幾何や公理論的幾何の草分けでもある. [代10], [天8]  トップ

ファルティングス(Gerd Faltings, 1954.7.28-.)  西ドイツ,ゲルゼンキルヘンの生まれ.
 ミュンスター大学で博士号(1978).アメリカ,プリンストン大学教授(1987-98),現在ボンのマックス・プランク研究所理事(1998-).モーデル予想(有限次代数体上定義された種数≧2の代数曲線上の有理点は有限個)の解決(1983)などの代数的整数論の業績により,フィールズ賞受賞(1986).Inventiones mathematicaeの編集長.  [パ5], [名3] トップ

ファン・ケーレン、ルドルフ(Ludolph van Ceulen(=Koln), 1540.1.28-1610.12.31).
 ドイツ、ヒルデスハイムに生まれ、オランダ、ライデンに死す。
 数学とフェンシングを教える。ステヴィンファン・ルーメンと親交。 πを35桁計算。この35桁の数字は妻により彼の墓石に刻まれた。ライデン市の聖ペーテル大聖堂に今もこの墓はあるが、数字は判別できなくなっているという。ドイツでは長く、πはルドルフの数と呼ばれており、今でも呼ばれることがあるそうである。正 n=6×260角形の辺の長さを計算して出した値だが、この方法ではこれが限界で、これ以降は別の方法を考えることになる。その意味でこれが一つに達成点であり、名前が残る理由でもある。   [解I.4, 文] トップ

ファン・デル・ヴェルデン(Bartel Leendert van der Waerden, 1903.2.2-1996.1.12).
 オランダ、アムステルダムに生まれ、スイス、チューリヒに死す。
 オランダの数学者・古代数学史家。ゲッティンゲンのネーター・ボーイズの一人。アムステルダム大学とゲッティンゲン大学で学ぶ(1919-1925)。ゲッティンゲンで教授資格取得(1928)。ライプツィヒ大学でハイゼンベルグと同僚になる(1931)も、戦中戦後はナチの国から来たということで疎外され、戦後アムステルダムのシェル石油で応用数学者として働く。1947年ジョンズ・ホプキンス大学を訪れ、1948年に帰国後アムステルダム大学教授に。1951年以降はチューリヒ大学教授。
1924年当時はエミー・ネーターの下で学ぶ.代数幾何学(代数多様体の次元の定義),量子力学や数理統計学への群論の応用など幅広い.ガロア理論では,ほとんどすべての整係数の代数方程式のガロア群が対称群になることを示す.ネーター学派の代数学の集大成としての『(現代)代数学』(1930)は重要.数学史,物理科学史,古代科学史などにも著書がある.
文献
  1. 『量子力学における群論的方法』 Die gruppentheoretische Methode in der Quantenmechanik, (1928, 1931)
  2. 『現代代数学』 Moderne Algebra, 2 vol.(1937), 日本語訳は『現代代数学1,2,3』(銀林浩訳)東京図書(1959).
  3. Einfurung in die algebraische Geometrie, (1939, 1973). 日本語訳は『代数幾何学入門』(前田博信訳),シュプリンガー・フェアラーク東京(1991).
  4. 『科学の夜明け』Science Awakening (1954). 日本語訳は『数学の黎明−オリエントからギリシャへ』(村田全+佐藤勝造訳)みすず書房(1984)
  5. 『天文学の始源』Die Anfange der Astronomie (1962).
  6. 『量子力学の原典』Sources of the Quantum Mechanics (1967).
  7. 『古代文明における幾何と代数』Geometry and Algebra in Ancient Civilization (1983).
  8. A History of Algebra: From al-Khwarizmi to Emmy Noether(1985)『代数学の歴史−アル-クワリズミからエミー・ネーターへ』(加藤明史訳)現代数学社(1994)
  [解I.2-3, 文], [珠序, 訳序, 1.1-2, 1.6, 説2.2.4, 文], [代コ], [ブ50] トップ

ファン・デル・ポル(Balthasal van der Pol, 1889.1.27-1959.10.6).
 オランダのユトレヒトに生まれる。
 物理学・数学者、電気技術者。J.J.トムソンの弟子。ユトレヒト大学卒業(1916)。エイントホーベン電気工学研究所に勤務(1922-1949)。振動論、とくに自励振動。演算子法の数学的基礎づけ(1929-1932)。  [解II.9] トップ

ファン・デル・ポルテン(Alfred Jacobus van der Poorten).
 オーストラリア,マコーレイ大学学校数学および物理学教授.整数論.  [天6] トップ

ファン・ルーメン、アドリアン(Adriaan van Roomen=Adrianus Romanus, 1561.9.29-1615.5.4).
 ベルギー、ルーヴァンに生まれ、ドイツ、マインツに死す。
 ルーヴァン大学(1586-1592)、ヴェルツブルグ大学で医学・数学の教授。1604年に聖職者となり、1610年以降ポーランドで数学を教える。クラヴィウスを師とし(1585,ローマで)、ヴィエートファン・ケーレンとも交流。
 弦関数を計算して小数点17桁のπの計算(1597)。3円に接する円を求めるというアポロニウスの問題(アポロニウスの著作が失われていたため、当時、3円の場合は未解決だと思われていた)を双曲線を用いて解く(1596)。後にニュートンも定規とコンパスで解いている(『普遍算術』(1728)、問題47)。  [解I.4] トップ

フィスク(Steve Fisk).
 アメリカ,メイン州,ボウドウィン大学数学科教授.低次元トポロジーに関し,ハーヴァード大学で,G.-C.ロータのもとで学位(1972).低次元トポロジー,グラフ理論,組合せ論,射影幾何.  [天28] トップ

フィフテンゴルツ(Grigori\u{i} Mikha\u{i}lovich Fichtengol'tz, 1888.6.5--1959.6.26).
 ロシア,オデッサの生まれ.オデッサ大学卒業(1911).ペトログラード電子工学研究所(1915--1920),ペトログラード大学教授(1918).実変数関数論,関数解析.定評ある教科書『微分積分学教程』(1947-1949),『解析学教程』(1955-1956)などがある. .  [モ歴] トップ

フィボナッチ=ピサのレオナルド(Leonardo da Pisa, Leonardo Pisano = Fibonacci,1170頃-1250頃).
 イタリア、ピサに生まれ、ピサに死す。
 父はピサの外交係で、アルジェリアに赴任(12才)、父と共に地中海沿岸各地をイスラム側も含めて旅行する。土地土地の計算法・記数法を身につけた。 通称のフィボナッチはボナッチの息子という言葉 filius Bonacci を縮めたもの.自分ではビゴリ(Bigolli:「無用のもの」,または,「旅人」)と名乗っていた. 1200年にピサに戻り、出版した『算盤の書』(1202)で10進記数法とそれによる四則演算法を,インド・アラビア数字と共にヨーロッパに紹介。0を Zephirum と呼んでいる。フィボナッチ数列。
 1220年の『幾何学演習』は当時の幾何学の集大成で三角法も含んでいた。今は失われたユークリッドの本(図形の分割に関すること)に基づく部分もある。1225年の『精華』では不定方程式,合同数,3次方程式の近似解も論じている.
 1228年以降は消息が知られていないが,唯一の例外は1240年のピサ共和国からの年金の証書(真摯で学識ある巨匠レオナルド・ビゴリに銀20ポンドの年金を付加給付する旨のもの).
文献
  1. 『算盤の書』(Liber Abaci, 1202, 自身による再版は1228)
  2. 『幾何学演習』(Practica geometriae), 1220.
  3. 『精華』(Flos), 1225.
  4. 『哲学者テオドロスへの手紙』
  5. 『2次方程式の書』(Liber quaddratorum), 1225.
[解I.1, 6], [名3, 17], [黄5] トップ

フィンスラー(Paul Finsler, 1894.4.231-1970).
 チューリヒ大学教授.数学者,天文学者.
 リーマン幾何の一般化で,計量を2次形式からもっと一般にしたフィンスラー幾何を始めた。  [パ附1] トップ

フェラーリ、ルドヴィコ(Ludovico Ferrari, 1522.2.2-1565.10.5).
 教皇領、ボローニャに生まれ、ボローニャに死す。
 14才の時カルダーノの召し使いとなり、カルダーノにラテン語、ギリシャ語、数学を学び、カルダーノの秘書となり、18才の時(1540)ミラノの数学公開講演者となる。この年、4次方程式の解法を得る。
 タルターリアとカルダーノが、ミラノで群衆の前で論争をしたとき(1548.8.10)、カルダーノの代わりにタルターリアを打ち負かした。そのためタルターリアはブレーシャでの職を失い、フェラーリはマントゥアで課税額査定者の職を得た。1565年にボローニャ大学数学教授となったが、この年実の姉に白砒素で毒殺されたと伝えられている。
 師のカルダーノはその死を想って、1世紀のローマの詩人を引用し、「節度なき者に人生は短く、老いはまれなり。何を愛し求めるにせよ、中庸をもってせよ」と、儒学者のようなことを言っているが、カルダーノにしてさえ、フェラーリは「節度がない」ように見えたのだろうか。 [解I.1], [名8] トップ

フェルフルスト(Pierre Francois Verhulst, 1804.10.28-1849.2.15).
 ベルギー、ブラッセルに生まれ、ブラッセルに死す。
ゲント(Gentはフランドル名、Gand(ガン)はフランス名、ヘント(Ghent)とも言う。)大学(1816年創立)に学ぶ。ブラッセル自由大学数学教授、後王立軍学校へ。人口問題に非線形方程式を導入。ベルギーの人口の上限を予言。マルサス-フェルフルストのモデル。 [解II.7, 文] トップ

フェルマ(Pierre de Fermat, 1601.8.20(17)-1665.1.12).
 フランス、(トゥールーズ近くの)ボーモン・ド・ロマーニュに生まれ、カッストルに死す。
 オルレアン大学で法律を学び、トゥールーズ高等法院参与。『解析教程』で言及された積分に関する業績のほかに、整数論・確率論などがあり、最近まで予想であった最終定理ワイルズにより解決)は余りにも有名。  [解序, I.2-4, II.1-2,4, 7, 文], [パ序, 10-11, 年表], [名1-3, 6, 附E, 文], [珠訳序, 2.1, 説0, 1.2, 1.7.1, 1.7.3-4, 3.2, 3.2.2], [代3], [ブ50], [天1, 4] トップ

フェルマン(Emil Alfred Fellmann, 1927-).
 スイス,バーゼルの生まれ.バーゼル大学で数学,天文学,理論物理学,哲学を学ぶ.17-18世紀の科学史,数学史を専門とし,ライプニッツオイラーに関する著作がある.
 日本語に『オイラー その生涯と業績』(山本敦之訳,シュプリンガー・フェアラーク東京,2002)がある. [解II.10] トップ

フェルミ(Enrico Fermi, 1901.9.29-1954.11.28).
 イタリア,ローマに生まれ,アメリカ,シカゴに死す(死因は癌).
 1918年ピサ大学付属校等師範学校入学,後ピサ大学に進学,X線に関する研究で学位(1929).その後ゲッティンゲン大学のボルンやライデン大学のエーレンフェスト(1880-1933)のもとでも研究.1924年フィレンツェ大学数学講師,1926年ローマ大学理論物理学教授.1928年ユダヤ人女性と結婚したためファシズムの弾圧に遭う.1938年ノーベル賞授賞式にストックホルムに行き,そのままアメリカへ亡命,コロンビア大学教授となる. 1941年研究チームと共にシカゴ大学に移り,原子炉の建造に着手.制御された連鎖反応を成功させ,原子爆弾の開発に寄与.1944年からロス・アラモスで原爆開発に指導的役割.1945年の終戦と共にアメリカ市民権を得,シカゴ大学に戻り原子核研究所で働く. 死の翌(1955)年に発見された原子番号100の元素はフェルミウムと呼ばれ,10-15mの長さの単位をフェルミと言う.
 速度の遅い中性子を使う新種の放射性元素の発見によりノーベル賞.β崩壊の実験により,パウリのニュートリノ理論を裏づける.フェルミ・ディラック統計,フェルミ・ディラック関数,トーマス・フェルミの方程式.  [代17] トップ

フェンケル(Werner Fenchel, 1905.5.3-1988.)  デンマークの数学者.ドイツ,ベルリンの生まれ.
 ベルリン大学卒業(1928)後,ゲッティンゲン大学,コペンハーゲン大学(1933-)に勤務.群論,微分幾何学,代数幾何学,関数論,関数解析学.   [ト6, 文] トップ

フォイエルバッハ(Karl Wilhelm Feuerbach, 1800.5.30-1834.3.12)  ドイツ,イェーナに生まれ,エルランゲンに死す.  父親のポール・J.A.リッター・フォン・フォイエルバッハは法学教授でバイエルンの刑法を書いた. 8人の兄弟のうち5人が博士号を得,3人が教授になった.一番有名なのは,教授にはならなかったが哲学者の弟ルードヴィッヒ・A.フォイエルバッハ(1804-72)である.
 22歳までに博士号を取得し,エルランゲンのギムナジウムの教授に任命される.健康に優れず,1828年に退職し,残りの6年は隠遁生活を送る.
 1822年に9点円(オイラー円とも呼ばれる)の論文を書く.三角形の9点円と内接円は接するが,その接点をフォイエルバッハ点という.1827年の論文では,メビウスと独立に斉次座標を導入している. [直] トップ

A.T.フォメンコ(A.T.Fomenko)
 ロシアの幾何学者でトポロジスト.
 日本語に訳されているものに『ホモトピー論』(三村護訳編)『微分幾何学とトポロジー』(三村護訳)(共立出版)がある.   [パ:ノート], [ト文], [代コ] トップ

フォン・シュタウト(Carl Georg Christian von Staudt, 1798.1.24-1867.6.1).
 ローテンブルグ帝国自由都市(現在,ドイツ,ローテンブルク・オプ・デル・タウバー)に生まれ,バヴァリア,エルランゲン(現在,ドイツ領)に死す.
ゲッティンゲンに学ぶ(1818-1822).彗星の軌道の決定に関してエルランゲン大学で学位を取得(1822).ニュルンベルグ工科学校教授(1827),エルランゲン大学教授(1835).
 射影幾何学に関する著書『位置幾何学(Gemetrie der Lage)』(1847)と『位置幾何学補遺(Beitrage zur Gemetrie der Lage)』(1856-60)で,計量によらない射影幾何の扱いをする.ベルヌーイ数やコンパスのみを使う正17角形の作図など.2次方程式の幾何的解法. [名19], [天10] トップ

フォントネル(Bernard Le Bovier de Fontenelle, 1657.2.11-1757.1.9).
 フランス、ルーアンに生まれ、パリに死す。
 コルネイユの甥。科学思想家・文学者。ルーアンのイエズズ会学院で学ぶ。ロピタルの『無限小解析』の無記名の序文の著者。パリ科学アカデミーの永久書記(1697)。『多数世界問答』(1686)、『神託論』(1687)、『新旧優劣論』(1687)などの他、科学界の歴史(1707)、科学者の弔辞(1708-1719)などを著した、科学啓蒙家の最初の一人。1699年に『数学を学ぶ有用性について』の中で、
「何のために人々は数学や自然科学を好きにならねばならないのだろうか?..... 人々はいつも自分が理解できないものを役に立たないと呼ぶ。それは一種の復讐で..... 」
と書いている。  [解III.6] トップ

フォン・ノイマン(John von Neumann, 1903.12.28-1957.2.8).
 ハンガリー,ブダペストに生まれ,アメリカ,ワシントン特別区に死す.
 子供のころはヤーノシュ,アメリカに行ってからはジョニーと呼ばれた.父のマックスは銀行家.幼時,ドイツ人とフランス人の女性家庭教師に学ぶ.ユダヤ系ではあるが,宗教環境はユダヤ教とキリスト教の混合であったらしい.ルーテル・ギムナジウムで学ぶ(1911-21).彼の数学的才能が特異であることは教師に周知であったが,1年上にも同じような生徒がいた.E.P.ウィグナーで,彼らは友人となる.  1913年に父はvonの名前を金で得たが,自分では称さず,息子の名前をドイツ式にJohann von Neumannとした.
 第1次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が敗北して,国内が乱れたので,ハンガリーを離れる.この頃,父は,学問を諦めさせるように,T.フォン・カルマンに説得を依頼するが,結局化学でならと大学教育を認めることになる.
 ベルリン大学(1921-23),チューリヒ工科大学(-25).化学工学の学位(1925).この時チューリヒにはワイルポーヤがいて,その講義に出ている.集合論に関する仕事で,ブダペスト大学数学博士(1926).
 ベルリン大学数学私講師(1926-29).ハンブルク大学講師(1929-30).ロックフェラー奨学金でゲッティンゲン大学のヒルベルトのもとで学ぶ(1926-27).この頃既に,彼の数学的才能は世界的に有名になっていた.
 O.ヴェブレンにより招かれ,プリンストン大学客員教授(1930),数学の正教授(1931),高等研究所教授(1933-死).高等研究所の初代の6人の教授の1人(他は,A.アインシュタインJ.W.アレクサンダーM.モース,O.ヴェブレン,H.ワイル).
 アメリカ政府顧問(1940-54).第2次大戦中は軍事顧問で,オッペンハイマーと原子爆弾,E.テラーと水素爆弾計画に参加.1955年頃から体調が悪くなり,ガンで死ぬ.  戦略ゲームのモデルとしてのゲーム理論(1928,ゲッティンゲンの研究集会で発表.E.ボレルのミニマックス理論の一般化でもある).
 マレーとの共同研究で作用素環の研究.エルゴード理論の数学的基礎づけ.コンパクト群に解析的なパラメータの導入.
 量子力学の公理化(1927-).ハイゼンベルグの不確定性原理の数学的基礎づけ.行列力学と波動力学の等価性の証明(1944).チャンドラセカールと共同で重力波の研究.プログラム内臓式の計算機の原理と実作(MANIAC,mahtematical analyser, numerical integrator and computer, 1945年からプリンストン大学で.1952年完成).オートマトン(自己増殖型機械),セル・オートマトン,神経系の解析.
 ノイマン型計算機,フォン・ノイマン環.
文献
  1. 『量子力学の数学的基礎』Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik(1932).日本語訳は,みすず書房(1957)
  2. 『電子計算機と頭脳』 The Computer and Brain(1958).日本語訳は,ラティス(飯島泰蔵他訳,1964).
  3. 『自己増殖オートマトンの理論』Theory of Self-Reproducing Autopmaton, (1966).日本語訳は,岩波書店(高橋英俊監訳,1975)
  4. 『ゲームの理論と経済行動(全5巻)』 The Theory of Games and Economic Behavior, with Oscar Morgenstein(1944).日本語訳は,東京図書(銀林浩他訳,1972-73).
伝記
  1. スティーブ J.ハイムズ『フォン・ノイマンとウィーナー』(高井信勝監訳)工学社(1985)、John von Neumann and Norbert Wiener, by Steve J.Heims(1980)
  2. ノーマン・マクレイ, 1923-『フォン・ノイマンの生涯』(渡辺正+芦田みどり訳)朝日選書610(1998.9.25) John von Neumann by Norman Macrae(1992).
 [代コ] トップ

フック(Robert Hooke, 1635.7.18-1702.3.3. )  イギリス,ワイト島,フレッシュウォーターに生まれ,ロンドンに死す.
 学校でラテン語とギリシャ語を学んだが,ラテン語でものを書かなかった.1653年にオックスフォード大学クライスト・カレッジに行き,聖歌隊に入る.1655年にR.ボイルの助手となり,排気ポンプを作り,気体の法則,燃焼,呼吸などの研究をする.
 1658年にはらせん状のばねに関するフックの法則,1678年には弾性体のフックの法則を発見.光学(薄膜の干渉現象を波動説で解釈),調和振動,張られた弦の応力などを研究.ロンドン大学グレシャム・カレッジの幾何学教授(1665-95).王立協会創立時(1662)からの実験機器管理者Curator(40年間).幹事(1677-83).
 1665年には自分で作った顕微鏡で観察したしい細密画集を出版し,基本的な生物学的発見(細胞の発見)をした.世界的な名声を得ることになる.
 円錐振り子を発明し,初めてグレゴリー式の反射望遠鏡を作る.この望遠鏡により,木星が軸の周りを自転していることを発見.彼の描いた火星のスケッチにより火星の自転周期が決められた.1666年には振り子とを使って重力を計算することを提案.1666年のロンドンの大火からロンドンを再建するプロジェクトでC.レンの第1助手.
 1672年に地球が太陽の周りを廻っていることの証明を試み,6年後惑星の運動の説明のために重力の逆2乗の法則を提案.ニュートンとの先取権争いは不幸な結果を生み,プリンキピアから引用を削除され,あまつさえ,彼の死後,王立協会の会長になったニュートンによって,王立協会にフックの器具,原稿,肖像がすべて廃棄されたという.現存する肖像がないことには,彼が「痩せて,腰が曲がり,醜い」という記述から,肖像のモデルをするために座っていたくはなかったのだろうかという説もある.しかし,1710年の夏に王立協会を訪問したドイツ人貴族のウッヘンバッハが,会員の肖像画の中で目立つものとして,ボイルとフックの2人の肖像を記憶しているという証言がある.
文献
  1. 『毛細管現象試論』(An Attempt for the Explication of the Phaenomena Observale in an Experiment, 1661)
  2. 『天文学でより正確な観測をするための新しい機器について』(A Discourse of a New Instrument to Make More Accurate Obsevations in Astronomy, 1661)
  3. 『ミクログラフィア』(Micrographia, 1665)
  4. 『地球の運動を証明する試み』(カトラー講義録, 1674)
  5. 『ヘヴェリウスの「天文機械・第1部」への批判』(カトラー講義録, 1674)
  6. 『太陽望遠鏡についての記述』(カトラー講義録, 1676)
  7. 『ランプ』(カトラー講義録, 1677)
  8. 『講義と修正−彗星論・顕微鏡観察』(カトラー講義録, 1678)
  9. 『復元力についての講義』(カトラー講義録, 1678),フックの法則を論じたもの
 [解IV.3, 人], [パ序, 1-4, 10-12, 附1, ノート, 年表], [ブ50] トップ

フックス(Immanuel Lazarus Fuchs, 1833.5.5-1902.4.26. )
 ドイツ,モシン(現在はポーランド領,ポズナムの近く)に生まれ,ドイツ,ベルリンに死す.
 ベルリン大学卒業(1858).クンマーワイエルシュトラスの弟子.ハイデルベルク大学とベルリン大学に勤務.函数論と微分方程式論.特に複素関数を係数とする線形微分方程式の理論.フックス群.  [名序, 14-16, 18, 文] トップ

フッペルト(Bertram Huppert, 1927.10.22-)
 ドイツ,マインツ大学教授.有限群論の専門家.すべての主組成列の商が巡回群であるとき,超可解群と言う.有限群が超可解であるための条件がすべての極大部分群の指数が素数であることを証明(1954).有限群に関する3巻本(1967,82)は,今日における定本.  [代コ] トップ

プトレマイオス、クラウディオス(Ptolemaios(=Ptolemy, Ptolemeus, Ptolemaus, Ptolemee) Claudios, 85?-165?).
 エジプトに生まれ、アレキサンドリアに死す。
 127年頃-141年にアレキサンドリアで天体観測をしていたことはわかっているが、恐らくはほとんどアレキサンドリアで暮らしたであろうと思われる。天文学・地理学者。緯線・経線を導入。 彼が天動説を唱えたというのでなく、アリストテレスの唱えたその枠組みの中で、太陽、月、惑星の運動を精確に表わそうとしただけである。主著は『アルマゲスト Almagest 』.
 πの値としては377/120(=3.1217)を使った. [解I.1, 4, 文] トップ

ブニャコフスキー(Viktor Yakovlevich Bunyakowskii, 1804.12.16-1889.12.12).
 ウクライナ,ポダルスカヤ・グベルニア,バールに生まれ、ロシアのサンクト・ペテルブルグに死す。
 家庭教育の後パリに留学(1820-25)。パリで公開審査で博士号取得(1825)。ペテルブルグで教職。陸軍関係(1827-62)、ペテルブルグ大学教授(1846-1880)。コーシーの『微積分概要』のロシア語訳。業績は多岐。ガウスの平方剰余の相互法則の新しい証明。 コーシー・ブニャコフスキーの不等式.  [解III.5, 文], [天16] トップ

フビニ(Guido Fubini, 1879.1.19-1943.6.6.)
 イタリア,ヴェネツィアに生まれ,アメリカ,ニューヨークに死す.
 ピサ高等師範学校卒業(1900),ディニビアンキの弟子.1939年ファシスト政権に逐われて,アメリカに移住.関数論,幾何学.曲面の射影微分幾何学の創始者.  [ト3] トップ

フュルステンベルグ(Hillel F\"urstenberg)
 イスラエル,ヘブライ大学数学研究所.組合せ論, 数論,確率論,エルゴード理論,群論.  [天1] トップ

フュレディ(Zoltan F\"uredi)
 ハンガリー科学アカデミー数学研究所でPhD取得(1981).イリノイ大学アルバーナ・シャンペイン校数学科教授. グラフ理論,有限幾何,計算機科学.エルデシュ数1. [天13] トップ

フョードロフ(Evgraf Stepanovich Fedorov, 1853.12.22-1919.5.21)  ロシア,オレンブルグの生まれ.
 現代結晶学および鉱物学の創始者の一人.ペテルブルグ鉱山大学卒(1888).1905年より学長.A.シェーンフリースと独立に空間結晶群の分類(1885, 1889).新しい幾何学の提唱.  [代10, コ] トップ

フライ(Gerhardt Frey.)
 ドイツ,エッセン大学数学科教授.代数幾何学・整数論.フェルマの最終定理の証明に寄与.  [名3] トップ

ブラヴェ(Auguste Bravais, 1811.8.28-1863.3.30).
 フランス,アンノンの生まれ.パリ,エコールポリテクニク教授.
 物理学者かつ数学者.結晶学の大きな貢献.1848年にブラヴェ格子(14タイプの空間格子)を導入,結晶の幾何構造の研究を始める.ジョルダンの運動群の研究の原型となった.
 『結晶図式試論』Etudes cristallo-graphiques (1851).     [代13] トップ

プラウフ(Simon Plouffe, 1965.6.11-).
 カナダ,ケベック州,サン・ジョヴィト村(モントリオールから160km)の生まれ.モントリオールのケベック大学で整数論の研究で学位(1992).ケベック大学の数理情報と組合せ論研究所研究員
 2進数におけるπの任意桁を計算可能にするBBPアルゴリズムの式(ベイリーP.ボールウェイン=プラウフの公式)を発見した(1995)。πを任意の基数において計算するアルゴリズムを発見した(1996)。
 Plouffe's Inverter は,2億を越す数学定数を含むウェブサイトである。1975年、プラウフは、πの暗記の世界記録を 4096 桁で塗り替えた。この記録は1977年まで保持された。 トップ

R.ブラウワー(Richard Dagobert Brauer, 1901.2.10-1977.4.17.)
 ドイツ,ベルリン--シャーロッテンブルグに生まれ,アメリカ,マサチューセッツ,ベルモントに死す.
 代数学,有限群論,数論.有限単純群の分類法を定式化し,生涯をその実現に捧げる。ベルリン大学で,I.シューアの元で学び,後1933年まではケーニヒスベルク大学で働くが,政治的な事情で,カナダのトロント大学に移る.後アメリカのミシガン大学(1948-1952),ハーヴァード大学(1952-1971)で働く.初期はワイルとのスピノールについての仕事で,ディラックの電子論に背景を与える.後に,フロベニウスの群指標に興味を持ち,有限群論に移行する.リーマンζに関する研究もある.
 ブラウアー群,ブラウアー指標.ハッセ・ブラウワー・ネーターの定理.  [代序, 11-12, 22, コ] トップ

L.H.J.ブラウエル(Luitzen Egbertus Jan Brouwer, 1881.2.27-1966.12.2.)
 オランダ,オーヴェルスキーに生まれ,ブラリクム[Blaricum](アムステルダムの南東,ユトレヒトの北方にある町)に死す.
 アムステルダム大学卒業後,同大学教授.一般の位相空間でのホモロジー論やホモトピー論の創始者の一人.トポロジーでは次元の位相不変性定理,(ユークリッド空間の)領域不変性定理,(Snに関する)写像定理,(単体上の連続写像に関する)不動点定理. 2次元のシェーンフリースの定理(単純閉曲線に囲まれる領域は円盤と同相)の証明の誤りを示す.ブラウエル次数.
 排中律を排し,直観主義の創始者の1人.排中律を使わない集合論,測度論の教科書も書いている.  [ト序, 2, 5-6, 8, 文], [代21], [天15, 21] トップ

ブラウンカー卿、ウィリアム(Lord William Brouncker, 1620-1684.4.5).
 アイルランド、ライアン・カスルに生まれ、イギリス、オックスフォードに死す。
 2代目ブラウンカー子爵。王立協会初代会長(1662-77)。ロンドンのグレシャム・カレッジの学長('64-67)。オイラーによって誤ってペルの方程式と呼ばれている、2元2次不定方程式の解を与えた。業績はウォリスと共同のものが多く、ウォリスの書の中で発表されたので、誤解されている。 [解I.6] トップ

ブラーエ,ティコ(Tycho Brahe, 1546.12.14-1601.10.24).
 デンマーク、クヌートストループに生まれ、プラハに死す。
 貴族の子として生まれる.初め法律と哲学を学ぶが,1560年に日蝕の観測をして以来天文学と数学に向かう.コペンハーゲン大学,ヴィッテンベルク大学,ロストク大学に学び,1565年卒業.
 1572年11月カシオペア座に超新星を発見,特別な六分儀を作って,星が見えなくなる1574年4月まで観測.1576年デンマーク王フレデリック2世,天文台建設のためフベーン島をブラーエに提供.1577年の大彗星の観測により,アリストテレスの彗星理論に反駁.コペルニクスの太陽中心説には反対し,(地球以外の惑星は太陽のまわりをまわるという)独自の太陽系論を唱える.また,太陽の動きの観測により,1年の長さを1秒以内の誤差で決定する.その結果暦の改訂が避けられなくなり,1582年に10日削られることになり.その後グレゴリウス暦が採用される.観測データの整理のため,球面三角法を利用した大きな数の計算法を発明.
 王の死後,後援者を失い,1597年ドイツへ去り,2年後皇帝の招きでプラハに落ちつき,新しい助手のケプラーを得るが,1601年に死ぬ.残されたデータに基づいてケプラーが発見した法則が,新しい天文学の幕を明ける.  [パ年表] トップ

ブラシュマン(Nikolai Dmitrievich Brashman, 1796.6.25--1866.5.25.).
 モラヴィア,ロセノヴァに生まれ,ロシア,モスクワに死す.
 ウィーン大学卒.カザン大学(1825--34),モスクワ大学(1834--)に勤める.1839年にロシア国籍を取得. 初代モスクワ数学会長,その機関紙も創始.M.V.オストログラツキーの影響下で,流体力学,最小作用の原理などを研究. [伝] トップ    

プラトン(Platon, 紀元前427-347).
 ギリシャ、アテネに生まれ、アテネに死す。
 ソクラテスに私淑、その刑死(前399)後、12年にわたって内外を遍歴。エジプトでは水時計を学びギリシャに紹介した.シラクサでの政治活動の失敗の後、イタリア半島南部のクロトンにあった,ピュタゴラス教団に立ち寄り,ピュタゴラスの思想に接し、数学の価値を知る。アテネに戻り、将軍アカデモスの果樹園の中に学問所を作り、アカデミアと名づける。死ぬまでそこでの教育と対話篇の執筆。イデア説。
 アカデミアの入り口に掲げられていたという「幾何学に通ぜざるもの、この門を入るを許さず」という言葉は、今も数学者の心の支えである。西欧思想に与えた影響は深大で、「ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンに対する脚註から成り立っている」(ホワイトヘッド)といわれるほどである。
 紀元前4世紀になされた数学の業績はプラトンの友か弟子によってなされた。 5つの正多面体はプラトンの立体と呼ばれているが、プラトンが対話篇『ティマイオス』で述べたためで、正4面体、正6面体(立方体)、正12面体はピュタゴラス学派により、正8面体と正20面体はテアイテトス(前4世紀に活躍。アカデメイアで研究員をしていたらしい。)によるとされる。また正多面体を最初に作図したのもテアイテトスと言われている。 [解I.1], [名序, 17-19, 22, 文], [珠訳序], [代1, 13, 16], [天10] トップ

ブラフマーグプタ(Brahmagupta, 598-660?(670?)).
 インド、ウージャイン(Ujjain)(恐らく)に生まれ、インドに死す。
 数学・天文学者。ウージャイン天文台長。1年の長さを365日6時間5分19秒としている。ウージャインは中央インドの町でヒンドゥー教7聖地の1つ。いくつもの王朝の都として栄えた町で、インドの文化の中心地だった。 [解I.4], [名2] トップ

プラマー(Michael D. Plummer).
 テネシー州,ナッシュビル,ヴァンダービルト大学数学科.グラフ理論.ミシガン大学で,F.ハラリー(Harary)の下で学位(1966) [天7] トップ

フラムスティード(John Flamsteed, 1646.8.19-1719.12.31.)
 イギリス,ダービーシャー,デンビーに生まれ,グリニッジに死す.
 始め牧師を志すも天文学に転向,王立協会会員.1675年創立の王立(グリニッジ)天文台初代台長.悪口を言われながら,観測結果を送り続け,ニュートンの月の運動理論に寄与.精密な星表Historia Coelestis Britannicaを出版.  [パ2, 年表] トップ

ブラント(Stephan Brandt)
 ドイツ,ベルリン自由大学数学・情報学科.ベルリン自由大学で,M.アイグナーの下で学位(1994).現在イルメナウ工科大学数学・自然科学科私講師.グラフ理論.[解I.1, 文] トップ

フランチェスカ,ピエロ・デラ(Piero della Francesca, 1412?-1492.10.12). イタリア,ボルゴ・サン・セポレロ(現在サンセポルクロ)に生まれ,同地に死す.ルネサンス期のフレスコ画家.数学者としても知られる.3次元の物体を点々から見た図を描くことを追求.
De prospectiva pingendi『絵画の遠近法』(1478年頃)は,はじめて遠近法を数学的に取り扱った書物で,以降の遠近法に関する書物の多くは,これの引き写し.
Libellus de quinque corporibus regularibus『5つの正しい形体についての小冊子』では,アルキメデスの多面体,つまり,正多面体を平面で切り取った形を扱う.
Trattato d'abaco『算盤に関する論文』では実用算術と簡単な代数と幾何を扱う.算盤学派の基本文献.
ルネサンス期には彼の著作は公刊されず,写本のまま流布し,他の書籍の中に埋めこまれてしまった.例えば, 彼の代数はパチオーリの『大全』に,アルキメデス多面体はパチオーリの『神聖分割』に.  [多体] トップ

ブラントン(John D.Blanton). ニューヨーク、ロチェスター大学。オイラーの『入門』の最初の英訳者。 [解I.1, 文] トップ

フーリエ(Jean-Baptiste Joseph Fourier, 1768.3.21-1830.5.16).
 フランス、ブルゴーニュ、オセールに生まれ、パリに死す。
 数学・物理学者。エコール・ノルマルでラグランジュラプラスモンジュに学ぶ。エコール・ポリテクニク教授。ナポレオンのエジプト遠征に参加。
 イゼール県知事。熱伝導の方程式、フーリエ級数、フーリエ積分. [解II.4, III.3-4, 文], [パ8, 16, 25, 年表], [代序, 4-5, 15, 17] トップ

ブリオスキ(Francesco Brioschi, 1824.12.22-1897.12.14)
 ロンバルド・ヴェネト,ミラノ(現在イタリア領)に生まれ,イタリア,ミラノに死す.
 パヴィア大学卒業(1845),教授(1852-61).教育省に務めていた時期もある(1861-62, 1870-82).1863年ミラノ工科大学を組織し,校長になり,数学と水力学教授(-死).イタリア学派の創始者の一人.『行列論』,楕円関数とアーベル関数の変換理論.5次と6次の方程式を解くために楕円モデュラー関数を使う.純粋数学の応用上の価値を高く評価し,以降のイタリアの数学の方向づけに寄与.  トップ

ブリカール(Raoul Bricard).19世紀末のベルギーの工学者。 ブリカールの折り曲げ可能8面体.   [天7,モ]   トップ

ブリソン,ヘラクレアの(Bryson of Heraclea, 紀元前450年頃--?).
 ヘラクレア(現在,イタリア,タラント)の生まれ. プラトンアリストテレスがブリソンという名の数学者のことを数ヶ所で触れているが,同じ人なのかどうか分からない.アリストテレスは,ソフィストだったヘラクレアのブリソンを,ヘラクレアのヘロドトスの息子と述べている.また,ブリソンの主張の言葉の無作法さと,平方化(=求積)の方法を批判している.その平方化の議論が幾何の原理にではなく一般原理に基づくということで批判しているが,どういう内容だったかは触れていない.アリストテレスの批判はあっても,数学の発展という意味では重要なステップだったと言える.
 ディオゲネス・ラエルティウスによれば,ブリソンはソクラテスかメガラのエウクレイデス(ソクラテスの弟子で,アレキサンドリアのエウクレイデスと間違われることがある人物)の弟子だったという.
 ずっと後になって,210年にアレキサンドル・ アフロディシエンシスは,ブリソンの議論は「円に正方形をを内接および外接させ,その2正方形の間にもう1つの正方形を(多分内外接するように)入れて,その正方形の面積が円の面積である」であったと述べている..そして,アレキサンドルは,8と9は7と10の間にあるが,8と9は違うと言うもっともな反論をあげている.
 しかし,別の古代の注釈者であるテミスティオスは,円のどんな内接多角形は円よりも小さく,どんな外接多角形は円よりも大きいと主張してと述べている.その後のブリソンの議論がどうなっていたのかは分かっていないが, 辺の数を大きくしていけば,内外接の多角形の差は好きなだけ小さくなり,したがって,望むだけの精確さで円の面積が求められると言ったこともありそうなことだという意見はある.これはアンティフォンの議論の改良であって,アルキメデスの取り尽くし法に近いものである.
 また,プラトンが盗作したと告発された『非難』を書いた.ポリクセヌスとともに,プラトンの『パルメニデス』にある哲学的な議論を展開したと言われており,『パルメニデス』はブリソンの『非難』からの盗作だった可能性がある.とはいえ,哲学の多くは注釈であり,引用は当然で,引用という部分だけが,プラトン自身か後世の誰かのせいで欠落したのかもしれない.  トップ

ブリッグス、ヘンリー(Henry Briggs, 1561.2-1630.11.26).
 イギリス、ヨークシャー南西部、ハリファックスのウォーリーウッドに生まれ、オックスフォードに死す。
 ロンドンのグレシャム・カレッジの初代幾何学教授('96)、オックスフォード大学初代サヴィル幾何学教授('19)。エウクレイデス『原論』、ネイピアの『対数術』を刊行。イギリスに本格的に数学を導入した人。  [解I.1-3, 文] トップ

ブリースコルン(Egbert Brieskorn, 1936- ).
 1963年ボン大学で,F.ヒルツェブルフの指導の下,「微分トポロジーと代数多様体の解析的分類」によりPh.D.取得.
 ドイツ、ボン大学教授。代数幾何,トポロジー. [解序] トップ

フリードリヒ2世(Frederick II= Friedrich the Great, 1712.1.24-1786.8.17).
 プロシャ,ベルリンに生まれ,ポツダムのサン・スーシ(無憂)宮に死す.
 フリードリヒ大王とも言う(プロシャ王,在位 1740-86)。 1741年から25年間、オイラーのパトロン。オイラーをサイクロプス(1つ目の怪物)と嘲り、ヴォルテールを厚遇したため、宮廷内の人間関係から、オイラーはエカテリーナ2世のサンクト・ペテルブルグに戻ることになる。  [解II.10], [珠人] トップ

プリューファー(Ernst Pauli Heinz Pr\"ufer, 1896.11.10-1934.4.4.). ドイツの人.グラーツとミュンスターの大学に勤務.群論,とくにアーベル$p$群.ホモロジー代数でのプリューファー環. [天24] トップ

プリングスハイム(Alfred Pringsheim, 1850.9.2-1941.6.25).
 ドイツ、低地シレジア、オラウ(現在ポーランド領)に生まれ、スイス、チューリヒに死す。
 ベルリンで学び、ワイエルシュトラスに傾倒。ミュンヘン大学に勤めるが、戦中アーリア人でないことからスイスに逃れる。コーシーの積分定理の証明の簡素化。連分数論、表わし方の工夫、ランベルトの結果の現代的証明を与える。
「数学の求める真理は無矛盾性以上でも以下でもない。」 [解III.3-4, 7, 文] トップ

ブール(George Boole, 1815.11.2-1864.12.8).
 イギリス,リンカーンシャー,リンカーンに生まれ,アイルランド,カウンティ・コーク,バーリンテンプルに死す.
 論理を単純な代数学に変えた人.微分方程式,有限差分法,確率論の一般的方法についても業績がある.
 高等教育は受けなかったが,幼少のときから父から学び,12才にしてラテン語のホレーショの詩を翻訳.言語に才能を発揮.16才から学校で教える.僧職につきたいと思っていたが1835年翻意し数学の勉強を始める.ケンブリッジのダンカン・グレゴリーの影響を受けるも,親を養う必要から正規に大学には入らず,グレゴリーが編集をしていた数学雑誌Cambridge Mathematical Journalに書きはじめる.1849年からコークのクイーンズ・カレッジの数学教授に.
 49才で病死する.2マイルの距離を歩いて大学に行く途中大雨に降られ,濡れた服で講義をし,酷い風邪が肺に来たのだそうである.
 娘が5人.エティエール・リリアンは作家で,リュースィはロンドンで最初の女流化学教授.
 ブール環,ブール代数,ブール束など.
文献
  1. 『思考の法則』(An investigation into the Laws of Thought, on Which are founded the Mathematical Theories of Logic and Probabilities), (1854).
  2. 『微分方程式論』(Treatise on Differential Equations) (1859).
  3. 『有限差分論』(Treatise on the Calculus of Finite Differences) (1860)
 [代3-4, コ] トップ

フルヴィッツ(Adolf Hurwitz, 1859.3.26-1919.11.18).
 ドイツ、低地サクソン、ヒルデスハイムに生まれ、スイス、チューリヒに死す。
 始めシューベルトに学び、ベルリン大学で、クンマーワイエルシュトラスクロネッカーの講義を受ける。F.クラインとライプツィヒに移り、彼のもとでモデュラー関数に関する博士論文。ケーニヒスベルク大学(1884-92)でヒルベルトミンコフスキーを教え、長く親交。フロベニウスの後任として、チューリヒ工科大学教授(1892)。
 実係数方程式の根の実部がすべて負になる条件を求めるのをフルヴィッツの問題という。多元数論、e の超越性の証明の簡易化(1853)、等周問題の三角級数による美しい解答(1901)。
 日本語に訳されたものに、R.クーラントとの共著の『楕円関数論』(足立恒男+小松啓一訳)シュプリンガー数学クラシックスがある。 [解I.6], [名19-20, 文], [珠3.1, 説3.10, 文], [代コ] トップ

プルターク(プルタルコス)(Plutarch).
 ローマ帝国時代(1世紀)の文章家.『英雄伝』(岩波文庫)他,日本語に翻訳されているものも多い.ギリシャ数学に関して,その叙述だけで記録されている数学者や数学的業績がある. [名2] トップ

ブルバキ(Nicolas Bourbaki,活動期間1937-1968.11).
 フランスの生まれ.第2次大戦のレジスタンス運動の気運を持ちこんだ,エコール・ノルマル・シュペリオールの卒業生が中心になって結成された集団のペンネーム.現代数学の『原論』を作る目的で,少しづつ刊行されていく過程で,現代数学全体の公理化が進んで行った.40巻以上もあるが,完成したという宣言もないまま活動を停止している.これと並行して行われるようになったブルバキセミナーは現在も行われている.
 設立時のメンバーは秘密であったが,次第に正体が分かって来て,少なくともA.ヴェイユH.カルタンJ.デュドネC.シュヴァレー,J.デリサルトがいたことは知られている.そのあたりの事情はヴェイユの自伝に詳しい.
 数学を論理的に理解するだけでなく高い見識を持ちつづけることがメンバーには要求されて,ときどき抜き打ちの試験があって,正しいがあまり価値のない新しい定理の話をふと話しかけられて,それに「面白いね」と言ったら除名などという,恐ろしい伝説が伝わっている.  [名2], [パ序, 9, ノート], [代4, 6, コ], [天5] トップ

ブルン(Viggo Brun, 1885.10.13-1978.8.15.)
 ノルウェー,リールの生まれ.オスロ大学教授.数論.ブルンのふるい. [珠説2.2.6, 3.3, 文] トップ

プレイフェア(John Playfair, 1748.3.10-1819.7.20.)  スコットランド,ベンヴィに生まれ,エディンバラに死す.
 数学者で地質学者.セント・アンドリューズ大学に学び,聖職者に.後に,エディンバラ大学教授(1785).
 川が谷を削るという学説の先駆者.
 1795年の『幾何学原論』(Elements of Geometry)で,ユークリッドの第5公準をより扱いやすい形に書き改めたので,その形の公理は英語圏においてはプレイフェアの公理と呼ばれることが多い.(ただし,その事実自体は古代から知られていた.)  [名10] トップ

フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848.11.8--1925.7.26.)
 メックレンブルク・シュヴェリン(現在ドイツ領;当時は1803年以来ウェストファリアの和約以来スウェーデンの統治下にあった),ヴィスマールに生まれ,ドイツ,バッド・クライネンに死す.
 父親はヴィスマールの女子高校の校長.ヴィスマールのギムナジウムを卒業後,イェーナ大学(1869-71)ではエルンスト・アッベとK.フィッシャーに学ぶ.ゲッティンゲン大学(1871-73)で学び,1873年に幾何学の基礎に関する論文で学位取得.アッベに支持され,アーベル群と不変式論に関するハビリタシオン・シュリフトをイェーナ大学に提出,1874年5月に同大学の私講師になり,現役の最後(1917)までイェーナ大学で,教授には1879年に.
 著書『概念記号.算術的思考をモデルとした,純粋思考のための形式言語:Begriffsschrift, eine der arithmetischen nachgebildete Formelsprache des reinen Denkens』(1879)で記号論理学を創始. 1884年の『算術の基礎Die Grundlagen der Arithmetik』で,算術の論理的基礎付けをし,「数とは何か? 算術的真実の本姓とは何か?」を問うと序文で述べている.1893年には『算術の基本法則Die Grundgesetze der Arithmetik』の第1巻を出版し,算術に対する形式論理的な体系を構築,公理化する.第2巻(1903)では整数から実数を構築してみせる.その印刷中にラッセルからフレーゲの公理系の矛盾を指摘するパラドクスを知らされ,付録で公理系を修正.それもまた矛盾があることを自覚していたらしいと弟子が述べている.また,ヒルベルトの形式主義を批判した『幾何学の基礎』(1903,1905)もある.  [伝] トップ

フレシェ(Maurice Rene Frechet, 1878.9.2-1973.6.4).
 フランス、ブルゴーニュ、イヨンヌ、マリニイに生まれ、パリに死す。
 アダマールの弟子。集合論、抽象空間、距離空間の導入(距離空間という用語自身はハウスドルフによる)。ポアチエ大学(1910-19)、ストラスブール大学(1920-27)、パリ大学(1928-48)教授。フレシェ空間、フレシェ微分。
 日本語に翻訳されているものに『フレシェ 抽象空間論』(斎藤正彦訳)現代数学の系譜13共立出版(1987)がある。 [解IV.1, 3, 文] トップ

フレドホルム(Erik Ivar Fredholm, 1866.4.7-1927.8.17.).
 スウェーデン、ストックホルムに生まれ、同地に死す。
 ウプサラ大学,後ストックホルム大学へ.ストックホルム大学の力学・数理物理学教授(1906年).ミッタク・レフラーの弟子。
 積分方程式とスペクトル論.ディリクレ問題の解決のために積分方程式を論を展開(1900年).フレドホルム作用素,フレドホルム方程式など. 後ヒルベルトはフレドホルムの積分方程式に対する固有値問題の理論を完成. [代5, 8] トップ

フレネル(Augustin Jean Fresnel, 1788.5.10-1827.7.14).
 フランス、ノルマンディ、ブローリに生まれ、結核のためヴィユ・ダヴレーに死す。
 物理学者・土木技師。エコール・ポリテクニク卒業後土木局に勤務。1814年ナポレオンがエルバ島から戻って来た際職を辞し、ノルマンディの自宅に監禁される。光の波動説を解析学を用いて包括的で厳密な理論に発展させた。反射光の偏光に着目し、光が横波であることを主張。 [解II.6, 文] トップ

フレンケル(Adolf Abraham Halevi Fraenkel, 1891.2.17-1965.10.15).
 ドイツ、ミュンヘンに生まれ、イスラエル、エルサレムに死す。
 数学・論理学者。ドイツ各地の大学で学んだあと、マールブルグ大学(1916-28)、キール大学(1928-29)で教えた後、エルサレムに移住しヘブライ大学教授(1929-引退)。
 初期にはヘンゼルのp進体の公理系や環論の研究.後に集合論に興味が移り,1919年に書いた『集合論』は版を重ねた.
 『抽象集合論』(1953),{集合論の基礎』(1958)では,ツェルメロの7つの公理に対して,8つ目の「置換公理」を導入した.選択公理についての研究もあるが,結局後になってP.J.コーエンがを証明するまでは明確な形にならなかった.
ZFS系について選択公理の独立性  ツェルメロ-フレンケルの集合論。数学史にも貢献、カントール全集の編集。 [解文], [天15] トップ

フロイデンタール(Hans Freudenthal, 1905.9.17-1990.10.13).
 ドイツ,ルッケンヴァルデに生まれ,オランダ,ユトレヒトに死す.
 ベルリン大学卒(1927),博士(1931)(指導者はH.ホップ,内容は位相空間と群の端(End)について).1927年にベルリンに来ていたブラウエルの講義を聴き,親しくなり,1930年にブラウエルの助手としてアムステルダム大学に行く.1940年にナチス・ドイツがオランダを占領し,ユダヤ人だったので家族とともに身を隠す.1945年5月にカナダ軍により開放され,大学に復帰する.ユトレヒト大学教授(1946-75).ユトレヒト大学数学教育研究所初代所長(1971).この研究所は後に数学・計算機学部の一部となり(1981),現在はフロイデンタール研究所となっている(1991年9月).
 関数解析,トポロジー,リー群論(『線形リー群』(1969)),代数学(『8元数』Octaven, Ausnahmegruppen und Octavengeometrien(1951)),微分幾何,数理論理学,哲学・科学・数学史,科学啓蒙.
 リース空間のスペクトル定理.半単純リー群の指標理論.球面のホモトピー群に関するフロイデンタールの定理.フロイデンタールのコンパクト化.
 数学的帰納法の発見をパスカルに帰すべきであることを確証(1953).
 日本語に翻訳されている著書に,『数学を鑑賞する』(矢野健太郎訳,世界大学選書004,平凡社)Mathematics Observed(1967)がある.   [代コ], [ブ50] トップ

フロベニウス(Ferdinand Georg Frobenius, 1849.10.26-1917.8.3)
 プロシャ,ベルリンに生まれ,ドイツ,ベルリンに死す.
 ベルリン大学卒業.ワイエルシュトラスの下で学位取得(1874).チューリヒ総合技術専門学校(1875-93),ベルリン大学教授(1893).代数学,代数的整数論,行列論,有限群論,群指標の理論.フロベニウス群,フロベニウス写像など.  [代11, コ], [天23] トップ

フンボルト,アレキサンダー(フリードリヒ・ハインリヒ・アレキサンダー,フォン・フンボルト男爵,Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt, 1769.9.14-1859.5.6)
 ドイツ,ベルリンに生れ,ベルリンに死す.近代自然地理学の父.ガウスとともに国際磁気観測学会を設立.ディリクレがドイツの,そしてベルリン大学に移ることを援助.   [伝] トップ

フンボルト,ヴィルヘルム(カール・ヴィルヘルム,フォン・フンボルト男爵, Karl Wilhelm, Freiherr von Humboldt,1767.6.22-1835.4.8.)
 ドイツ,ポツダムの生まれ.  アレキサンダー・フンボルトの兄.  思想家,言語学者,政治家.人文主義を提唱.1808年のベルリン大学創設.   [伝] トップ


  
  
  
  
  

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