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『解析教程』.『微分トポロジー講義』. 『数理解析のパイオニアたち』. 『数学名所案内』. 『数論の3つの真珠』. 『代数学とは何か』.
『黄金分割』. 『天書の証明』. 『数学の最先端 21世紀への挑戦3』 『シンメトリー』 『微分のはなし』 『古典群:不変式と表現』 『直線と曲線 ハンディブック』
『数学者列伝』 『面積・体積・トポロジー』 『微分のはなし』 『積分と微分のはなし』


 人名索引 は


人名索引総目次     
ハイゼンベルグハイネハイベルグハイラー
ハウスドルフハクスリーバークリー司教ハーケン
パーシヴァルバシェ・ド・メジリアクハーシェルハーシェル,ジョン
バジミールハーシュ
パースパスカル、ブレーズパスクァルバストン
パーセヴァル
パタシュニクパチオーリバックハッセ
ハーツホーンパッポスG.H.ハーディハーデ
ハドヴィガーC.バートンバナッハ
ハーパーパパキリアコプロスパブロフパパン
ハミルトン林鶴一
パラモノヴァハリーハリオットM.ハリファックス
パルビエパルマンティエハルモス
パーレットバロー
バーンサイドバンチョフ



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ハイゼンベルグ(Werner Karl Heisenberg, 1901.12.5-1976.2.1).
 ドイツ,ヴュルツブルグに生まれ,ミュンヘンに死す.父はミュンヘン大学の中世および近代ギリシャ語の教授.
 ギムナジウムでは多方面に才能を認められていたが,卒業後ワイルの『空間・時間・物質』を読んで数学に興味を持ち,ミュンヘン大学で数学を学ぼうとするが,ゾンマーフェルトの下で物理を学ぶ.同級にパウリがいて,生涯の友人となる.学生時代既に,異常ゼーマン効果を説明する論文(1921).1922年夏,ゲッティンゲン大学で行われたボーア祭に出席,ボーアに強い印象を与える.博士論文は,流体力学の乱流に関するもので,ミュンヘン大学から(1923).
 ゲッティンゲン大学でM.ボルンの助手(1923-24).ロックフェラー奨学金で,コペンハーゲンの理論物理研究所ニールス・ボーアの下で研究(1924-25).
「私は,ゾンマーフェルトからは楽観主義を,ゲッティンゲンからは数学を,ボーアからは物理を学んだ.」
 1925年ゲッティンゲンに戻るが,枯草熱に罹り,療養のために行ったヘルゴランド島で,量子力学の端緒を得た.行列力学と呼ばれるものだが,彼自身は量子化された確率振幅を対象とし,それが非可換環をなすことを示した.ゲッティンゲンのボルンとヨルダン(Pascule Jordan, 1902-1980)が行列代数をなすことに気がつき,3人で共同して行列力学に纏め上げ,1926年に発表.これにより,ノーベル賞受賞(1932).1926年にはシュレーディンガーが波動力学を発表し,理論の同等性をも示したが,その後フォン・ノイマンにより数学的基礎が確立された.
 1926年コペンハーゲン大学講師になり,水素分子H2がオルト水素とパラ水素の2状態で存在することを予想(2つの原子のスピンが揃うか逆向きかという違い).1929年に実際に確かめられる.
   1927年不確定性原理を発表.因果律概念に変革をもたらす.ボーアが相補性原理を提唱し,いわゆる量子力学のコペンハーゲン解釈が生まれる.
 ライプツィヒ大学教授(1927-41).1928年,強磁性を解明(電子間の交換相互作用という観点で).1929年パウリとともに量子電気力学を展開.1932年中性子が発見されると,T.D.イワネンコと独立に,陽子と中性子からなるという原子核構造を提唱.宇宙線理論.場の量子論の適用限界.散乱行列理論.超伝導理論.中間子の多重発生理論.素粒子の統一場理論.
 ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所長(1942-45).戦争中は原子エネルギー計画に従事するが,原爆製造には成功せず.戦後,取り調べのため,8ヶ月間イギリスに抑留.1946年に帰国.カイザー・ヴィルヘルム協会の業務を引き継ぎ,ゲッティンゲンのマックス・プランク協会設立に協力.1946年マックス・プランク物理学研究所長.1958年に研究所はミュンヘンに移動,1970年まで所長.
 ハイゼンベルグ代数.
文献
  1. 『量子論の物理的基礎』Die Physikalischen Prinzipien der Quantentheoriek(1930).
  2. 『自然科学的世界像』 Wandlungen in den Grundlagen der Naturwissenshaft(1935, 1973).
  3. 『原子核の物理』Die Physik der Atomkerne (1943).
  4. 『現代物理学の思想』Physik und Philosophie(1958).日本語訳は,みすず書房(河野伊三郎・富山小太郎訳).
  5. 『部分と全体』 Der Teil und das Ganze(1969).日本語訳は,みすず書房(山崎和男訳).

伝記
  1. E.ハイゼンベルグ『ハイゼンベルグの追憶−非政治的人間の政治的生涯−』(山崎和男訳)みすず書房
  2. デヴィッド・C・キャシディ『不確定性 ハイゼンベルグの科学と生涯』(金子務ほか)白揚社(1998.5.15) Uncertainty:The Life and Science of Werner Heisenberg by Divid C. Cassidy(1992)
 [代18] トップ

ハイネ(Heinrich Eduard Heine, 1821.3.16-1881.10.21).
 ドイツ、ベルリンに生まれ、ハレに死す。
 ベルリン大学とゲッティンゲン大学で学ぶ.ワイエルシュトラスの弟子.ボン大学,ハレ大学教授。ポテンシャル論,偏微分方程式,特殊関数論(円柱関数は彼の命名)。一様連続の定式化、ハイネ・ボレルの定理. [解I.6, II.6, III.0-1, IV.1-2], [] トップ

ハイベルグ(Johan Ludvig Heiberg, 1854.11.27-1928.1.4).
 デンマークの古典文献学者・科学史家。コペンハーゲンの高校の校長(1884-95),コペンハーゲン大学古典言語学教授(1898-1924)。アルキメデスエウクレイデスの全集、アポロニウスプトレマイオスのテキストの編纂。特にアルキメデスの『方法』の古写本をコンスタンティノープルで発見したことで有名。 [解文], [名文] トップ

ハイラー(Ernst Hairer, 1949-).
 オーストリア、チロル、Naudersに生まれる。
 インスブルック大学に学び、G.ヴァンナーのもとで学位(1972)。現在、スイス、ジュネーブ大学教授。数値解析.日本語の本に『解析教程』がある. [解II.9], [パ13, 27], [名2], [ト序, 2, 文], [珠説2.0, 2.3, 文], [ブ50] トップ

ハウスドルフ(Felix Hausdorff, 1869.11.8-1942.1.26).
 ドイツ、ブレスラウ(現在ポーランド領)に生まれ、ボンに死す。
 ライプツィッヒ大学卒業(1891)後ライプツィッヒ大学に勤め、後ボン大学へ(1910-13, 1921-1935)。グライフスヴァルト大学(1913-21).途中ゲッティンゲンに招かれたが、断っている。ユダヤ教の信仰のためナチの迫害に遭い、収容所に送られることを拒み,妻と妻の姉妹とともに自殺。
 点集合論,位相空間論,連続群論,関数解析,整数論.ハウスドルフの近傍公理.距離空間の定式化.半順序集合の導入.
 ハウスドルフ空間,ハウスドルフ分離公理,ハウスドルフ次元(1919).
  1. 『(点)集合論の基礎』Grundzuge der Mengenlehre (1914).
[解IV.1-2, 文], [ト附A, D.2], [名15, 附C], [珠説3.10], [代14] トップ

ハクスリー(Thomas Henry Huxley, 1825.5.4-1895.6.29).
 西ロンドン,イーリングに生まれ,イギリス東サセックス州イーストボーン(Eastbourne)に死す.
 生物学者,博物学者.20歳でロンドン大学で医学士になる.解剖学と生理学で主席.毛の内部のハクスリー層の発見(1845).
 トレス海峡の測量に出かけるラトルスネーク号に外科医として乗船.海の無脊椎動物の研究,ヒドロ虫綱(Hydorzoa).1850年に帰国し,王立協会のフェローに.名目上海軍省の外科医助手として雇用される.尾虫類(オタマボヤ類)の分類や有頭軟体動物の分類.
 1854年7月海軍省を止め,王立鉱山学校(後にインペリアル・カレッジ・ロンドンになる)の講師,1855年英国地質調査所の博物学者になる.
 1859年にダーウィンが『種の起源』を出版,それを強く支持し,「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれる.R.オーウェンとの論争で,人とゴリラの骨格を比較し,それを示す有名な挿絵を持つ著書『自然界における』人間の位置についての証拠を出版(1863).
 古生物学の研究,特に化石魚,化石爬虫類など.王立協会事務局長(1871-1880),総裁(1881-1885).1888年に王立協会からコプリー勲章授与.枢密委員(1892).新設されたロンドン教育委員会の委員(1870).
   「何かについてのすべて,すべてについての何かを学ぼうとせよ」
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バークリー司教(George Berkeley, 1685.3.12-1753.1.14).
 アイルランド、トマスタウン近くのディザート城に生まれ、イギリス、オックスフォードに死す。
 アメリカ・インディアンへの布教活動も資金難で失敗。アイルランド、クロインの(英国国教会の)監督。「存在とは知覚なり。」 [解II.1-2] トップ

ハーケン(Wolfgang R.G. Haken, 1928.6.21-).
 ドイツ,ベルリンの生まれ.アメリカの数学者.
 キール大学卒業.イリノイ大学教授.トポロジー(ハーケン多様体),離散数学,サイバネティックス.アッペル,コッホ(John A.Koch)と共に4色問題の解決(1976). [名19], [天26]  トップ

パーシヴァル(Colin Andrew Percival, 1982-).
 カナダのサイモン・フレイザー大学(1998年入学)で数学を学ぶ.1996年にPiHexのコードを書き,1998.3.21にPiHexプロジェクトを立ち上げ,$\pi$の2進数展開の計算の記録を作る.2005年現在,オックスフォード大学計算機科学の博士課程在学中で,2004年1月からFreeBSDのデベロッパを務める.  [モ歴] トップ

バシェ・ド・メジリアク(Claude Gaspar Bachet de Meziriac, 1581.10.9-1638.2.26. )
 フランス,ブール・ガン・ブレスに生まれ,同地に死す.
 1621年に彼が出版したディオファントスの『算術』のラテン語訳の余白の少なさがフェルマの死後の論争の原因である. 1次不定方程式の再発見(``Problemes plaisants et delectables qui se font par les nombres'').バシェ方程式,バシェ曲線.  [名3] トップ

ハーシェル(Frederick William Herschel, 1738.11.15-1822.8.25)
 ドイツ,ハノーヴァに生まれ,イギリス,スローに死す.
 当時ハノーヴァはイギリス統治下にあり,父は軍の音楽師だった.イギリスに渡り,楽士として名をあげる.1772年ごろから天文学に興味を持ち,ハノーヴァから妹のカロリンを連れ帰り観測を始める.1775年大型の反射望遠鏡を完成する.1781年3月13日に偶然に天王星を発見.最初は彗星と考えられていたが,1年後に惑星であると確認される.天王星の衛星を2個発見(1787).1789年には土星の衛星2個を発見,土星の自転周期を測定.さらに800個以上の2重星を発見し,その内の多くが連星であることを示し,恒星界でもニュートンの万有引力の法則が成り立つことを示す.  [パ23, 年表] トップ

ハーシェル,ジョン(John Frederick William Herschel, 1792.3.7--1871.5.11.
 イギリス,バッキンガムシャー,スローに生まれ,ケント州,ホークハーストに死す. ウィリアム・ハーシェルの一人息子.王立協会のフェロー(1813).
 2102個の連星の目録,1707個の星雲と星団の目録,南半球の星図の作成.アストロメーターの発明.NGCとして知られる星雲星団総目録の作成.天文学の概要Outlines of Astronomy』(1849) はその後数10年間天文学の標準的教科書となる.  [列] トップ

バジミール(Frederick Bagemihl, 1920-.)
 ウィスコンシン大学数学科.多面体.  [天12] トップ

ハーシュ(Morris William Hirsch, 1933.7.28-.)
 アメリカの数学者.カリフォルニア大学教授.トポロジー,群論.
 日本語に訳されているものに,S.スメールとの共著『力学系入門』(田村一郎+水谷忠良+新井紀久子訳)岩波書店(1976)がある.  [ト2, 文] トップ

パース(Benjamin Peirce, 1809.4.4-1880.10.6.)
 アメリカ,マサチューセッツ州,セーレムに生まれ,マサチューセッツ州,ケンブリッジに死す.天文学者,数学者,哲学者.ハーバード・カレッジ卒業(1829),ハーバード・カレッジに勤め,1833年より教授.
 海王星と月の運動の表,多くの彗星の軌道計算など.数学では主に環論.ベキ零元,ベキ等元,環のテンソル積の概念を導入.パース分解.息子のチャールズ・パース(1839.9.10-1914.4.19)との共同研究が多い.  [名15] トップ

パスカル、ブレーズ(Blaise Pascal, 1623.6.19-1662.8.19).
 フランス、オーベルジュ、クレルモン(現在クレルモン・フェラン)に生まれ、パリに死す。
 父エチエンヌ・パスカル(1588.5.2-1651.9.24、リマソン(蝸牛線)の発見者。命名はロベルヴァルによる)は裕福な家系で、息子の教育のためパリに移住(1631)。
 父に伴われ、メルセンヌ・アカデミーに参加。 ジラール・デザルグに会い、その射影幾何学を発展させたのは、アポロニウスの理論の拡張でもある(パスカルの定理=神秘6角形の定理『円錐曲線私論』(1640))。
 実用面での発明も多く、今も普通に使われている手押し一輪車も彼の発明。パスカル式車輪(=手回し計算機,1640)も人気があり、8台が現存している。 1646年末にトリチェリの真空実験の噂を聞き、流体の静力学について考察。特に空気を流体として考察する点が新しく、高度による気圧の差を予言(『液体の平衡に関する大実験談』)。
 サイコロ賭博の賭金分配に関する問題に与えたパスカルの解が論争を呼び、1654年7月29日-10月27日までフェルマと文通して意見を交換する中で確率論が成立する。1658年の春の一夜激しい歯痛に悩まされ眠れぬパスカルは、サイクロイドに関するメルセンヌの未解決問題を考察することを思いつき、夜明けまでに問題を解いたときには歯痛が治まっていたという。この時解いた問題はすでに初等的には解けない問題で、本質的には三角関数の微積分が必要な問題であった。しかし彼は自分流の代数言語を作りだし、それによって式を書かずに答えを得ている。パスカルの言語はとりわけ明晰で、代数記号法の使用をなぜ拒むか分からぬときでさえその力業には感嘆するばかりだと、ブルバキも書いている。天才にしか使えないものでなく、凡人にも使えるようにするために記号が考案されたときが、微積分の成立ということになる。
 ポール・ロワイヤルに入ってイエズス会と論争。 『パンセ』。体の弱かった彼が40才前まで生きられたのは、それでも考える葦だったためかもしれない。
 日本語では人文書院の『パスカル全集』、教文館の『パスカル著作集』、中央公論社の『パスカル』世界の名著24があり、科学論文を含めてほとんどの著述が翻訳されている。また『パンセ』筑摩世界文学大系の他にも種々の文庫本が出版されている。   [解I.1-2, 4], [パ序, 10-11, 年表], [珠説2.5], [黄5], [天2, 23] トップ

パスクァル(Luigi di Pasquale). 数学史.  [解I.1, 文] トップ

バストン(V. J. D. Baston)
 イギリス,サザンプトン大学数学科.多面体.  [天12] トップ

パーセヴァル(Marc-Antoine Parseval des Ch\hat{e}nes, 1755.4.27-1836.8.16)
 フランス,ロゼール・オ・サリンに生れ,パリに死す.
 貴族階級の生まれで,フランス革命時,ルイ16世の国外逃亡に従ったが,果たせず,パリに連れ戻され,監獄に入っていた(1792年).その後も王党派として活動,ナポレオンからも逮捕命令が出され国外に逃げ,後にパリに戻る.
 論文は5篇のみ,1798, 1799, 1801, 1803, 1804年にアカデミーに提出されたが,1806年に初めて,一括して出版された.
 実関数論,数理物理学.フーリエ級数論.パーセヴァルの等式. [ワ7] トップ

パタシュニク(Oren Patashnik)
 情報科学.クヌースらと共著の本を書いているときスタンフォード大学の博士課程在学中. BibTeX の作成.  [天2] トップ

パチオーリ(Luca Paciori(ルカ・ディ・ボルゴ(Luca di Borgo)ともフラ・ルカ(Fra Luca)とも呼ばれる)1445-1517.)
 イタリア,サンセポルクロに生まれ,同地に死す.数学者で修道士.商業算術の重要性が増していたイタリアの各都市,特にヴェネツィアで豪商の子弟の家庭教師をする. 1494年出版の『算術,幾何,比および比例大全(Summa de arithmetica, geometrica, proportionalita)』(1487年までに書き上げられていた)は西欧ではフィボナッチの『算盤の書』(1202年)以来の本格的な数学の教科書とされている.複式簿記の父とも言われる.
 未刊の書『定量について(De viribus quantitatis)』には,デューラーより早く魔方陣が描かれている. 正多角形,正多面体,黄金分割の値などを扱った『神聖分割について(Da Divina Proportione)』(1509年)はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたと言われている説明図の素晴らしさでも知られている. ユークリッド『原論』のイタリア語版出版(1509).   [名17] トップ

バック(R.Creighton Buck).
 1942年にシンシナチ大学で修士、後ハーバード大学で博士号を取得。ブラウン大学(1947-50)を経て、ウィスコンシン大学に勤務。AMS(アメリカ数学会)とMAA(アメリカ数学協会)の双方で活躍。「応用数学の友」を自称しているという。  [解II.5, 文] トップ

ハッセ(Helmut Hasse, 1898.8.25-1979.12.26).
 ドイツ,カッセルに生まれ,アーレンスブルク(ハンブルクの近く)に死す.父は判事で母はミルウォーキー生まれのアメリカ人.15才のとき父の転勤でベルリンに行き,フィヒテ・ギムナジウムで2年間学び,第1次大戦勃発で,海軍関係に応募する.
 キール大学で学び(1917/18),テプリッツの講義に出た.海軍除隊後はゲッティンゲン大学に入学し,ランダウヒルベルトネーターヘッセに学ぶ.ヘッセの影響を強く受け,数ヶ月後にハンブルク大学に移ったヘッセを追おうとしたが果たせず,1920年マールブルグ大学に移り,ヘンゼルの下で研究する.ヘンゼルのp進数の理論の影響で,1920年10月今日ハッセ原理として知られる2次形式に関する「局所・大域原理」を発見,翌年学位論文.
 1922年キール大学講師.この時代,ハンブルクのE.アルティン,へッケ,オストロフスキーシュライアーらと密接に交流.類体論に関するH.ヴェーバーの仕事を拡張する.類体論の総合報告は有名.1925年ハレ大学教授.局所体上の中心的単純代数に関する基本定理を得る.ハッセのζ関数とハッセ予想.
 1930年ヘンゼル引退の後継として,マールブルグ大学教授になる.この時代,R.ブラウワーやネーターと,単純代数(ハッセ・ブラウワー・ネーターの定理)や代数的数体のブラウワー群に関する共同研究をする.また,楕円曲線に関する研究や,ベーアとともに位相体についての研究を始める.
 1933年ナチが政権をとり,大学にも影響が出始める.ワイルがゲッティンゲンの教授から追放され,ナチに許容可能とみなされたハッセに要請があり,ワイルの奨めもあって,1934年ゲッティンゲン大学教授になる.しかし,ユダヤ人数学者との交流関係のせいもあり,逆にナチに影響を与えようとして失敗する.1939年から45年までは,ゲッティンゲンを去り,海軍務に復帰し,ベルリンで弾道学の問題に従事する.戦後ゲッティンゲンに復帰するも,1945年9月イギリスの占領軍に教授権を剥奪され,研究職を示されたが拒絶し,1946年ベルリンに移り,アカデミーの研究職に就く.1949年東ベルリンのフンボルト大学教授に.アーベル代数的数体の算術的性質の決定.局所的方法に基づく代数的整数論の初めての成書を出版.ハンブルク大学教授(1950-66引退).50年間クレレ雑誌の編集.  [代7, 11, 15] トップ

ハーツホーン(Robin Hartshorne, 1938-.)
 ハーヴァード大学を経て,現在カリフォルニア大学バークレー校教授.代数幾何学.ハーツホーン予想(接束が豊富な非特異射影多様体は射影空間)の解決は森重文のフィールズ賞受賞理由の1つ.著書に『射影幾何学の基礎』(1967) ,『代数幾何学』(1977).  [名3, 文] トップ

ハットン(Charles Hutton, 1737-1823)。
 数表(1785)と数学辞典(1796)で有名.八ットンの公式を使ってπの計算を行う. トップ

パッポス、アレキサンドリアの(Pappos = Pappus of Alexandria, 290年頃-350年頃)。
 エジプト、アレキサンドリアの生まれ。
 数学集成 (Sinagoge)8巻のうち、1,2巻は失われる。7巻の『解析のトポス』に、デカルトが解答を与えたパッポスの問題が載っている。  [解I.1], [名文], [代10-11, コ] トップ

G.H.ハーディ (Godfrey Harold Hardy, 1877.2.7-1947.12.1.)
 イギリス,サレイ,クランレイに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
 ケンブリッジ大学トリニティ校卒.トリニティ校で講義(1906-19),ケンブリッジ大学(1919-31),オックスフォード大学サヴィル教授(1931-42).整数論(ディオファントス近似,素数分布,リーマンのゼータ関数,ウェアリングの問題など),関数論(フーリエ級数,発散級数の和など). リトルウッドとの共同研究が多く,ラマヌジャンを援助したことでも知られる.彼の数学に対する考え方ははっきりしている.
「数学者のパターンは,画家や詩人と同様,美しくなければならないし,アイデアは,色や言葉と同様,調和した適合がなければならない. 美こそが最初のテストであり,醜い数学に恒久的な場などないのだ。」
 日本語の本に『ある数学者の生涯と弁明』(柳生孝昭訳)シュプリンガー数学クラブ,E.M.ライトとの共著『数論入門I,II』(示野信一+矢神毅訳)シュプリンガー数学クラシックスがある. [名2, 5, 文], [珠訳序, 3.1, 説3.10-11, 文], [天2, 4, 16]  トップ

ハーディ(Oliver Hardy, 1892.1.18-1957.8.7).
 アメリカ、ジョージア、アトランタに生まれ、ハリウッドに死す。
 死因は中風・卒中。の映画俳優・喜劇役者。小映画館主から1913年映画界に入り、悪役など脇役をしていたが、26年ローレルとコンビを組んで喜劇映画の1時代を作った。日本では余り知られていない。ローレル、スタンの項参照。 [解II.8] トップ

ハドヴィガー(Hugo Hadwiger).
 スイスの幾何学者.著書多数.エルデシュ数は2. [天7] トップ

バートン,キャサリン(Catharine Barton=Catharine Conduitt, 1679-1746.)
 ニュートンの異父妹の娘.晩年のニュートンの世話をする.彼女から有名なリンゴの話を聞き,ヨーロッパに広めたヴォルテールはニュートンの名声は「無限小解析や重力ではなく彼の姪の美しさ」のおかげであると書いている.
 ニュートンの弟子で初代大蔵卿であるモンタギュ・ハリファックス卿の女中頭を,彼女は長い間勤めている. ニュートンの造幣局長官の職はM.ハリファックス卿に負う.またかなりの額のニュートンの遺産を受け継いでもいる.   [パ1, ノート] トップ

バナッハ(Stefan Banach, 1892.3.30-1945.8.31.)
 オーストリア・ハンガリー,クラクフ(現在ポーランド領)に生まれ,ウクライナ,リヴォフに死す.
 リヴォフ工科大学卒業(1914),学位(1920).リヴォフ工科大学教授(1924),リヴォフ大学(1927). 第2次大戦中はナチのリヴォフ占領下に苦しみ,戦後クラクフの大学に移動しようとしたが肺ガンのため病死.
 現代的関数解析の創始者.位相線形空間論,測度論,積分論,直交級数など.バナッハ空間は1920年の学位論文に現れ,フレシェが名づけたもの. バナッハ環,ハーン・バナッハの定理,バナッハ・シュタインハウスの定理,バナッハの不動点定理,バナッハ・タルスキの定理など.   [代5, 8] トップ

ハーパー(William Rainey Harper, 1856.7.26-1906.1.10)  オハイオ州ニューコンコードに生まれ,シカゴに死す.癌だった.
 早熟の天才として知られる.20歳で博士過程まで終了(イェール大学).1891年39歳のとき,ジョン・D.ロックフェラーはシカゴ大学創設を助力するために彼を選び,その後すぐ初代学長に専任.シカゴ大学出版会設立.この時代のアメリカの指導的な学者であった.
 数学に関しては,1892年にE.H.ムーアを数学科の主任に抜擢,ムーアの推薦により,オスカル・ボルツァとハインリヒ・マシケを教授に任命し,アメリカ数学界におけるシカゴ大学の基礎を作った.  [伝] トップ

パパキリアコプロス(Christos Domitriou Papakyriakopoulos, 1914-1976.)  プリンストン高等研究所教授.トポロジー,群論.  [ト文] トップ

パパン(Dennis Papin, 1647.8.22-1712).
 フランス、ブロアに生まれ、イギリス、ロンドンに死す。
 物理学者。パリで医学を学び、ホイヘンスを助けて空気ポンプを改良。1675年以降イギリスでボイルの実験を助ける。マールブルグ大学教授(1688-1707)。圧力鍋(パパンの鍋 1681)の発明、蒸気力による外輪船の建造(1707)。  [解II.1] トップ

パブロフ( Olek Ivanovich Pavlov)  オハイオ大学でアルハンゲリスキーの下で学位(1999).集合論的トポロジー..  [モ幾] トップ

ハミルトン(William Rowan Hamilton, 1805.8.3-1865.9.2).
 アイルランド、ダブリンに生まれ、ダブリンに死す。
 数学・物理学・天文学者。幼時から天才を謳われ、'20年頃『プリンキピア』を読み、'22年ラプラスの『天体力学』の誤りを訂正。このころ、アイルランドの天文学者は、「この若者はこの時代の第一の数学者に、なるだろうとは言わない。現にそうなのである。」と絶賛している。ダブリンのトリニティ・カレッジ在学中にダンシング天文台長になる(1827)。
 四元数、ベクトル解析、ハミルトン・ヤコビの方程式。ベクトルの命名.ハミルトン経路(二十面体計算,グラフ理論).  [解IV.0, 3, 文], [パ序, 14, ノート, 年表], [名19, 21], [代8, コ], [天5] トップ

林鶴一(Tsuruichi Hayashi, 1873(明治6).6.13-1935(昭和10).10.4).
 徳島の生まれ。
 東北数学雑誌を創刊。和算史家として有名。円の面積の 1/n (n>=3) の月形を定木とコンパスで切りとれないことを証明。   [解I.6, 文] トップ

パラモノヴァ,イリーナ旧姓シチェポチキナ(Irina M. Paramonova, 1953.5.16--. Shchepochkina}).
 ソ連,モスクワの生まれ.モスクワ大学卒.A.A.キリロフの指導で,ベキ零リー群の表現論に関する論文で学位(1980).アレクサンドル・パラモノフと結婚(1981).モスクワ独立大学助教授(1993),モスクワ開いた教育研究所助教授(2001).
 表現論,リー群,リー環,リー超環の理論.     [モ] トップ

ハリー、エドモンド(Edmund Halley, 1656.11.8-1742.1.14).
 イギリス、ハッガーストーン、ショレーディッチ(ロンドンの近く)に生まれ、グリニッジに死す。
 オックスフォード大学サヴィル幾何学教授(1704)、王立天文学者(1720)。自身すぐれた数学者でもあり、ハリー彗星(1682年に来た彗星)が76年後に再帰することを予言するなどの業績もあるが、ニュートンにプリンキピアを出版する気を起こさせたことが人類にとっての最大の貢献だったと言えるかもしれない。
 不完全だったアポロニウスの『円錐曲線論』のラテン語訳(1-5巻のみ、1537)を、新発見のアラビア語訳から全巻を復元出版(1710)。 [解I.4, II.2, 文], [パ3-4, 17, 19, 21, 24, ノート, 年表] トップ

ハリオット、トーマス(Thomas Harriot, 1560-1621.7.12).
 イギリス、オックスフォードに生まれ、ロンドンに死す。
 数学・天文学・地理学者。ウォルター・レーリー卿のブレイン(1580-1598)。 イギリスの代数学の基礎を与える。方程式の書き方など、代数記号の簡素化はヴィエートを通して普及。不等号の考案者。望遠鏡で月・太陽の黒点の観察、太陽の自転周期を求める。スネル以前に光の屈折を発見。 [解I.1] トップ

ハリファックス伯,モンタギュー(Earl of Halifax, Charles Montague, 1661-1717.5.19.)
 イギリス,ノーサンプトンシャー,ホートンの生まれ.
 ニュートンの弟子.市民戦争(1642-46, 1648-52)から1688年の名誉革命までの内戦でイギリスの経済は機器に危機に瀕しており,立て直しのために置かれた初代大蔵卿になる.イギリス銀行の創立者でもあり,国王不在時の国の指導者であった.貨幣の質を高めるためニュートンを造幣局の監事(1696),ついで長官(1699)に任命.王立協会会長(1695-98).   [パ17, ノート, 年表] トップ

パルビエ(Joseph Emile Barbier, 1839.3.18-1889.1.28. ).
 フランス,パ・ド・カレ,サン・イレール・コテに生れ, ロアール,サン・ジェネに死す.
 エコル・ノルマル・シュペリオール入学(1857)以来,数学の能力で有名.卒業後ニースのリセで教えるが,初等教育の数学に意味を覚えず,ルヴェリエの招きでパリ天文台に就職.多少の狂気と宗教活動で捕らえられ,のちベルトランに救われる.
 多面体論,積分幾何,数論などビュフォンの針の問題を積分を用いずに証明する(1860).  [天20] トップ

パルマンティエ(Marc Parmentier).
 若いフランスの数学者で、ライプニッツの数学出版物の翻訳とコメントをする。  [解II.1] トップ

ハルモス(Paul Richard Halmos, 1916.3.3-).
 ハンガリー,ブダペストの生まれ.イリノイ大学卒業(1934)後、アメリカ各地の大学に勤務,1984年からはカリフォルニア州,サンタ・クララ大学教授.実変数関数論,関数解析.組合せ論.
 『測度論』『エルゴード理論』『有限次元ベクトル空間』『ヒルベルト空間』などの標準的な教科書も多数ある.アメリカでも数学の論文の書き方が問題になってきたのか、学会誌に掲載された『数学の論文の書き方』は翻訳される前から多くの人々に読まれている。
 日本語に訳された本も多く、『ヒルベルト空間入門』(柴岡泰光訳)東京図書、『素朴集合論』(富川滋訳)ミネルヴァ書房など。  [解IV.4], [天22] トップ

パーレット(Beresford N. Parlett).
 カリフォルニア大学、バークレイ校数学教授。 [解III.8] トップ

バロー(Isaac Barrow, 1630.10-1677.5.4).
 ロンドンに生まれ、ロンドンに死す。
 イギリスの聖職者・数学・物理学者。ケンブリッジ大学初代ルーカス教授(69)。この職を弟子のニュートンに譲ってからは神学に。微積分学の先駆者. [解I.2, 4, II.4, 文], [パ序, 5, 7, 9-12, 15, ノート, 年表], [ブ50] トップ

バーンサイド(William Snow Burnside, 1852.7.2-1927.8.21.)
 イギリス,ロンドンに生まれ,ロンドン,西ウィッカムに死す.
 ケンブリッジ大学ペンブローク・カレッジ卒(1875).教師にはストークスJ.C.アダムズ,マクスウェル,ケイリー
 しばらくケンブリッジで教えていたときは楕円関数論を研究.グリニッジ王立海軍大学数学教授になって(1885-1919)のときには,複素変数を使って流体力学を研究.1次分数変換の群を扱うようになり,1894年以降は群論に専念.
 『有限位数の群の理論』The Theory of Groups of Finite Order(1897) は,初めて英語で書かれた群論の教科書で,大きな影響を持つ.
 フロベニウスが発展させた群表現と指標の理論に接し,指標理論を使うようになる.最大の業績は「位数 pm qn を持つ群が可解であること」.(先行研究:n=0の場合はシロー(1872),n=1の場合はフロベニウス(1895),n=2の場合はジョルダン(1898)).バーンサイド予想「有限位数の群は可解である」に取り組んだが果たせずこれは,1962年にトンプソンとファイトが300ページを越す論文で証明している.  『有限位数の群の理論』The Theory of Groups of Finite Orderの第2版(1911) ,(日本語訳は『有限群論』伊藤昇, 吉岡昭子訳・解説,現代数学の系譜 9,共立出版,1970)は,フロベニウス理論をとリ入れ,始めて群を抽象代数的に取り扱ったもので,今日でも広く読まれている古典になっている.元の位数がある固定された値である場合の群の有限性を問うバーンサイドの問題は有名で,現在も研究されている.
 後になって確率論に転じ,『確率論』は死後出版されている.スコットランドの自然と釣りを愛し,母校ペンブローク・カレッジからの誘いを断り,グリニッジに留まることにしたという.  [代10, 17, コ], [天23] トップ

バンチョフ(Thomas Banchoff).
 ブラウン大学教授.ミネソタ大学の幾何センターにも所属.トポロジスト. フィルムや幾何センターのホームページで色々な図やアニメーションを紹介している(「球面を裏返す」が有名).   [名15] トップ


  
  
  
  
  

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