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 人名索引 たちつ


人名索引総目次 てと
ダイソンダーウィン
高木貞治高橋大介ダーゼ
谷山豊タネル玉河恒夫ダランベール
タルシタルターリアダルブーダル・フェロ
タレスタレーラン
ダンツァーダンテダンデリンJ.タンヌリ
チェイカリアンチェザロチェック
チェバ,ジョヴァンニチェバ,トマスチェビシェフ
チェンチホミロフチャーンチャンドラセカラン
チュドノフスキー,デイヴィッドチュドノフスキー,グレゴリーチルンハウゼン
ツァッセンハウスツアンネツィーグラーツィオルコフスキー
ツヴァベリツェルメロツェン(曽烱之)ツォイテン
ツォルンH.ツッカーマン



 
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ダイソン(Freeman John Dyson, 1923.12.15-).
 イギリス,バークシャー,クローソーンの生まれ.父は音楽家,作曲家.
 ケンブリッジ大学に入学し整数論を数学を志すも,第2次大戦中のことで,空軍の爆弾部隊に応召(1943),応用数学で勤務.1945年にはケンブリッジから学士を取得し,トリニティ・カレッジのフェローに.1947年アメリカにわたり,コーネル大学でファインマンとベーテの影響で物理に転向.プリンストンではJ.R.オッペンハイマーのもとで学ぶ.1949年イギリスに戻り,バーミントン大学のリサーチ・フェローに.コーネル大学物理学教授(1951),プリンストン高等研究所・物理学教授(1953),後名誉教授.1957年アメリカ市民権を得る.
 有理数による無理数の近似.量子電磁力学における,ファインマンの方法とシュヴィンガー(独立に朝永振一郎)の方法を統一した定式化をし,くりこみの計算(1950年頃).熱力学的極限の理論で,自発磁化を持ち相転移を起こしている例(1969).エントロピー論におけるダイソンの予想.宇宙物理学,特にオリオン計画(アポロ計画後の宇宙計画)に参加.
 また,宇宙空間への植民を提唱し,科学的世界観に関する啓蒙書も多い.ダイソン殻.
文献
  1. 『宇宙をかき乱すべきか』(鎮目恭夫訳)ダイヤモンド社(1982) Disturbing the Universe: A Life in Science(1979)
  2. Weapons and Hope(1984)
  3. Origins of Life(1985)
  4. 『多様化世界−生命と技術と政治』(鎮目恭夫訳)みすず書房(1990) Infinite in all Directions(1988)
  5. 『科学の未来を語る』(はやし・はじめ+はやし・まさる訳)三田出版会(1998.3.10) Imagined Worlds(1997)
 [代17, コ] トップ

ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809.2.12--1882.4.19.).
 イギリス,シュルーズベリ,マウントハウスに生まれ,ケント州,ダウンハウスに死す. 博物学者.進化論,自然淘汰説を提唱.『ビーグル号航海記(The Voyage of the Beagle )』 (1839), 『種の起源(On the Origin of Species)』(1859), 『人間の由来と性選択(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』(1871). 優生学のフランシス・ゴールトンは従弟. 墓はウェストミンスター寺院にあり,ジョン・ハーシェルI.ニュートンの墓の近くだという.  [伝] トップ

高木貞治(Teiji Takagi, 1875(明治8).4.21-1960(昭和35).2.28).
 岐阜県大野郡数屋村(現在は、本巣郡糸貫町数屋)に生まれ、東京に死す。
 東京大学教授。高木類体論が日本数学の唯一の誇りだった時代があった。どこでも微分可能でない連続関数の例(高木関数).
 岩波書店から『解析概論』『数の概念』『数学小景』『近世数学史談』(文庫)、共立出版から『初等整数論講義』『代数学講義』『数学雑談』など著書多数。 [解III.9、文], [ト文] トップ

高橋大介(Daisuke Takahashi). 東大の情報基盤センターの助手.
 1997年以来,金田康正に協力して,「πの計算」の世界記録を何度も更新する.  トップ

ダーゼ(Johann Martin Zacharias Dase, 1824.6.23--1861.9.11)
 ドイツ,ハンブルグの生まれ.幼時から暗算の才能を発揮.1839年からドイツ国内で非凡な計算能力を公衆の前で演じるようになる.例えば,20桁の数同士の掛け算を6分でしたと言う.
 1840年にウィーンにいたとき,計算能力を科学的な目的に使うように要請され,ガウスらと計画を練るようになる.
 1844年に,ラザフォードのπの208桁の計算を検証し,153桁目に誤りを発見.自身は205桁まで計算.200桁までが正しい値で,その結果はクレレ誌に掲載される.使用した公式はL.K.シュルツの公式を使った.
 自然対数の7桁の数表の計算を完成し(1850年,ウィーン),700万から1000万までのすべての数の約数の表を作る.900万までの素数表を作る
 ガウスがハンブルグ科学アカデミーに,ガウスの数学的目的のために,ダーゼをフルタイムで雇うように求め,アカデミーはそうすることを決めたのだが,ダーゼはその仕事できるほど生きることができなかった.   トップ

谷山豊(Yutaka Taniyama, 1927.11.12-1958.11.17)
 埼玉県騎西町に生まれ,東京に死す。
 東大出身。東大助教授のとき自殺。整数論の日光シンポジウムでアンドレ・ヴェイユに会ったことが彼の数学に決定的な影響を与えた。アーベル多様体の代数幾何の高次元化.谷山・志村予想はフェルマの最終定理の証明のために大きな役割を果たした.  [名3] トップ

タネル(Jerrold Tunnell)
 ラトガース大学数学科教授.数論,保形関数論.合同数の特徴づけ.  [名3, 附E, 文] トップ

玉河恒夫(Tsuneo Tamagawa, 1925-)
 日系アメリカ人.エール大学教授。 代数幾何,代数群,代数的数論,保形関数論.アデール群上の調和解析.玉河数.多元環のζ関数,L関数.2次形式に関するミンコフスキージーゲル・玉河の理論. [代15]   トップ

ダランベール(Jean le Rond d'Alembert, 1717.11.16-1783.10.29).
 パリに生まれ、パリに死す。
 騎士デトーシュとタンサン侯夫人の私生児として生まれ、捨て子にされ、サン・ジャン・ル・ロン教会管区委員に育てられる。
 フランス・アカデミー会員。ディドロとともに、百科全書の編纂。力の概念を使わず力学を展開(ダランベールの原理)。微分を極限と考えるのは彼による。  [解II.1, 8, III.1-2, IV.0, 文], [名5], [パ:ノート], [珠人] トップ

タルシ(Michael Tarsi).
 イスラエル,テル・アヴィヴ大学数理科学科教授.グラフ理論.  [天27] トップ

タルターリア、ニッコロ(Nicolo Tartaglia = Nicolo Fontana, 1499(1500)-1557.12.15).
 ヴェニス共和国、ロンバルディア、ブレーシャに生まれ、ヴェニス(ヴェネツィア)に死す。
 数学・機械学・軍事技術者。砲弾が45°のとき最も遠くまで飛ぶことを主張(後、ガリレイが証明した)。パスカルの三角形もその著書に載っている。エウクレイデスのイタリア語訳は『原論』の初めてのヨーロッパ語訳(1543)。アルキメデスのイタリア語訳も。業績は多彩。ルネサンス人の典型とも言える。
 3次方程式の一般解を発見した人。
 ダル・フェロによる3次方程式の代数解の発見を伝え聞き、独力で3次方程式の一般解を発見した(1535年2月13日の早朝)。ダル・フェロの弟子フィオルとの,30題を出し合っての,数学決闘の日の寸前だった.フィオルは師から伝えられた場合以外の3次方程式は解けなかった。 方程式は解析教程上I.1節の2次方程式の場合でもわかるように低次の係数の符号が変わると、図形で解く場合の解答の質まで変わることがある.3次方程式で図形的に意味のある低次の係数の組合せは3通りあり,タルターリアはその内2つの場合の解法を得た.後にカルダーノがアルス・マグナを書いたときには,3種類すべてが扱われた.
 フランス軍のブレーシャ略奪のとき剣で切られ口に傷を負い言語障害になる(12歳のとき)。どもりという意味のタルターリアが通称になった。本名はニッコロ・フォンタナ。また生涯、ロンバルディア訛りがとれなかったといい、カルダーノやフェラーリとの論争の際には不利になったようだ。
文献
  1. 『さまざまな問題と発明』 (Quesiti et inventioni diverse), 1546.
 [解I.1, II.7, 文], [名5, 8] トップ

ダルブー(Jean Gaston Darboux, 1842.8.14-1917.2.23).
 フランス、ニームに生まれ、パリに死す。
 エコル・ノルマル・シュペリオール(1872-1873)、ソルボンヌの教授(1873-1890)。ダルブー和、曲面論。ラグランジュの全集の編集。 [解III.4-6, 文] トップ

ダル・フェロ,シピオーネ(Scipione dal Ferro, 1465.2.6-1526.11.5).
 イタリア,ボローニャに生まれ,ボローニャに死す.ボローニャ大学教授,3次方程式の代数解を最初に発見した人.死の直前,弟子のフィオル(Antonio Maria Fior=Froridus, Fiore)らに伝えた. フィオルはこの秘密の式のおかげで,数学の公開試合で連戦連勝であり, タルターリアにも試合をしかけた. 期日(1535.2.12)が迫ったタルターリアがフィオルの側に秘密の解法があることを聞き,懸命に解法を考えついに8日前,3次方程式の一般の解を発見した.
 ダル・フェロは x3+ax = b (a,b>0) の形の方程式しか解いていなかったが,それを知らないタルターリアは x3=ax+b, (a,b>0) の形の方程式も解いたのである.負の数の概念がなかったため,この2つの型の方程式はまったく別のものと理解されていた.
 1543年にカルダーノと共にダル・フェロの養子のアンニバーレ・デッラ・ナーヴェをボローニャに訪れたフェラーリが,ダル・フェロの手書きのノートの中に公式を見たという報告がある.  [解I.1], [名5, 8]  トップ

タレス,ミレトスの(Thales of Miletus, 紀元前624年頃-547年頃).
 小アジア,ミレトス(現在トルコ領)に生まれ,ミレトスに死す.
 名の知られているギリシャ最初の哲学者.その意味で,あらゆる学問の父とも言われる.とくに,哲学,幾何学,天文学,航海術.ギリシャ7賢人の一人で,ソクラテス以前は彼だけ.
 青年時代,エジプトを訪れ,メンフィスやテーベの学校で学ぶ.特に幾何学を学び,ギリシャに伝えたが,証明が必要であることを認識したのは彼だという意見が一般的である.そうだとすれば,その認識がギリシャをヨーロッパの学問の源にしたということで,それが学問の父と言われる所以だろう.. 
 ミレトスに帰郷して哲学学校を創設.アナクシマンドロスを教えたとされる.彼の書いたものは残っておらず,既にアリストテレスもタレスの書いたものを見たことがないといっている.
 奇癖や伝説の多い人で,とくに考え事に集中すると周りが意識されなくなるという類いのものは,タレスのことに発するものが多い.
 航海にコグマ座(つまり北極星)を使うため,これを命名したと言う.紀元前585年5月28日の日食を予言.初等幾何の最初の部分はタレスによるとされる.たとえば,「対頂角は等しい」「二等辺三角形の底角は等しい」「円は直径で2等分される」「半円に内接する角は直角」など.またその知識を用いて,岸から船までの距離やピラミッドの高さを求めたとされる.  [黄3]  トップ

タレーラン(シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール Charles Maurice de Talleyrand-Perigord, 1754.2.13--1838.5.17).
 パリの生まれ. フランス革命期からルイ・フィリップ朝までの政治家.外交家としての評価が高い.
 名門貴族の長男.司祭(1779),ブルゴーニュのオータンの司教(1788),三部会の第一身分(聖職者)議員(1789),国民議会議長(1790),この年ローマ教皇ピウス6世から破門される. 国民議会の議員当時,『メートル法』制定の法案を提出した.
 恐怖政治の時期は,イギリスからアメリカへ亡命(1792--). 1796年に帰国し総裁政府の外務大臣になり,1799年辞任. ナポレオン・ボナパルトのクーデターに参加し外務大臣(1802),第1帝政期もナポレオンを支え,アミアンの和約などに関与. その後のナポレオンの拡張政策に反対,列強の均衡を図るという立場から辞任し(1807),フーシェとともに反ナポレオン派のリーダーに. ナポレオンの失脚(1814)後,連合国に請われて臨時政府の代表となり,ルイ18世の即位後は再び外務大臣となり,ウィーン会議(1814--15)に出席した. この会議では,正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し巧みな外交手腕でフランスの国益を守る. ナポレオンの百日天下(1815)の後,一時首相となったが,過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚. その後はルイ・フィリップの7月革命(1830)を支持し,第1顧問となり,イギリス大使(1830--1834)を勤めた以外は引退生活を送る.
 「金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」とか「絹の靴下の中の糞」とか酷評され,変節の政治家として嫌われることも多いが,フランスの国益を第1に考えた人でもある.  ラグランジュに対する「その天才によって全人類に栄光を与えた人」という評言は,フランスの人類文化への貢献を主張したい気持ちの顕れであろうか. オーストリアのメッテルニヒと並び称される名外交官としての評価は今も高い.   [モ歴] トップ

ダンツァー(Ludwig W. Danzer).
 ドイツ,ドルトムント大学数学科.凸体の幾何.  [天13] トップ

ダンテ・アリギエリ(Dante Alighieri, 1265--1321.9.14).
 イタリアの都市国家フィレンツェに生まれ,ラヴェンナに死す. ダンテ(Dante)は,「永続する者」の意味を持つ洗礼名ドゥランテ(Durante)慣習的短縮形である.
 イタリア文学最大の詩人とされ,ルネサンスの先蹤とも言われる.詩人,哲学者,政治家.
 9歳のときに1度,18歳のときに1度あっただけの,同い年のベアトリーチェ・ボルティナーリに対する精神的な恋愛は,彼女が銀行家と結婚し数人の子供を産み24歳で病死してから(1290),生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことになる. 代表作である詩文集『新生』や叙事詩『神曲』はその結実である.
 13世紀の北部イタリアは,ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の対立抗争で,血みどろの戦いを繰り広げられた.グェルフィ党(教皇派)に属したフィレンツェの市政に参画していった. それには勝利したものの,教皇派の中が,フィレンツェの自立政策を掲げる富裕市民層から成る「白党」と、教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持の「黒党」に分裂対立した. 最初は白党が市の政権を握り,小貴族のダンテは白党の最高行政機関プリオラートを構成する3人の統領の一人に任命される(1300). 1301年には黒党が政変を起こして実権を握っため,教皇庁へ特使として派遣されて、フィレンツェ市外にいたダンテは長年にわたって流浪の生活を余儀なくされ,故郷フィレンツェに戻ることはなかった. 1318年頃からラヴェンナの領主のもとに身を寄せた.死因は長旅の途上で罹患したマラリアであった. フィレンツェはたびたびラヴェンナにダンテの遺骨の返還を要求しているが,ラヴェンナはこれに応じていない.   [モ歴] トップ

ダンデリン(Germinal Pierre Dandelin, 1794.4.12--1847.2.15).
 フランス,ル・グールジェに生まれ,ベルギー,ブリュッセルに死す.
 ベルギーのゲントの学校に行き,1813年にパリのエコール・ポリテクニクに入学. フランス,ベルギーなどでの技術将校としての軍務やリエージュ鉱山工科大での教授などを歴任.ナポレオンに従い続けたため,百日天下後はベルギーに戻り,1817年にオランダの市民権を得る.
 数学的業績には幾何での,円錐曲線に関係したダンデリン球面やその回転双曲面への拡張や球面の立体射影などに関するものがある.また,代数,統計,確率にも業績がある.代数方程式の根を近似するダンデリン・グレッフェ法.  [直] トップ

タンヌリ,ジュール(Jules Tannery, 1848.3.24--1910.12.11).
 フランス,マント・スュール・セーヌ(セーヌ河畔のマント)に生まれ,パリに死す.
 フランス国鉄の技師デルフィン・タンヌリの第3子.兄のポールは数学史家で天文学者,父の仕事のため幼少時は引越しが多く,中等教育はカンのリセで修了(1866).エコル・ポリテクニクとエコル・ノルマルの両方に上位の成績で合格し,後者に入学.1869年に卒業後,レンヌのリセ,カンのリセ(1871),パリのエコル・ノルマル(1872)で教える.子供の頃ローマ・カトリックとして育ち,この頃の宗教上の危機を,古代の哲学者ルクレチウスの倫理・論理的なアイデアで克服.
 C.エルミートの指導で,論文「変数係数の線形微分方程式の積分の性質」で学位(1874).その後,リセ・サンルイやソルボンヌでも教え,1903年からはパリ大学の微積分学の教授.教育改革にも力.弟子にP.パンルヴェ,J.ドラック,E.ボレルなど.
 ガロアのノートや手紙の研究.関数論,楕円関数などの教科書や,数学教育での集合論的な傾向を推進.『数学紀要Bulletin des Sciences Mathematiques』の編集者を1876年から死ぬまで34年間勤める.   [伝] トップ

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チェイカリアン(Gulbank Don Chakerian).
 30年以上カリフォルニア大学デービス校教授.幾何的不等式論,凸集合の幾何.数学解説,数学教育の著書も多い. [天10] トップ

チェザロ(Ernesto Cesaro, 1859.3.12-1906.9.12).
 イタリア、ナポリに生まれ、イタリア、トレ・アヌンジアータに死す。
 ダルブーの影響強く、自然幾何学。ローマ大学卒業(1887)。パレルモ大学教授(1891-死)。  [解III.1] トップ

チェック(Edouard Cech, 1893.6.29-1960.3.15.).
 ボヘミア(現チェコ共和国),ストラーチョフ(プラハ近郊)に生まれ, チェコスロヴァキア(現チェコ共和国),プラハに死す.
 1912年,教師になることを目指してプラハのチャールズ大学哲学部に入学.物理に興味が湧かず,数学と画法幾何学のコースを選び,さらに図書館でより高度な数学を独習.1915年に第1次世界大戦が勃発し,オーストリー・ハンガリー軍に入隊.3年間にイタリア語,ドイツ語,ロシア語を習得.戦後チャールズ大学に戻り,数学教師の資格を得る.
 プラハの中学で教師をしながら研究を続け,博士号を得る(1920).1921年にイタリアに留学し,フビニと知り合い,フビニの求めで,帰国後も交流を続け,射影微分幾何に関する2巻本の共著をものする(1926,1927).
 1922年に帰国後,チャールズ大学の無給講師となるが,中学の教師を続け収入を得る.
 1918年チェコ人とスロヴァキア人がオーストリアの支配から脱し,指導者のマサリュクが初代大統領になり,1年後チェコスロヴァキア第2の大学であるマサリュク大学が(ブリュノに)設立され,1920年にその初代数学教授になったマティアス・ラーチが1922年に死に,その後任にポストを得る.1923年特別教授,1928年には正教授.彼自身は幾何に興味があったが,ラーチの後任であるため,解析学教授であった.もう一人の教授はザイフェルトであり,彼が幾何の教授.
 解析と代数の講義をする必要から数学全体に興味が広がり,とくにポーランド学派の影響で,トポロジーに関心が移る.点集合論と代数トポロジーの融合を図り,チェック・ホモロジーを定義.射影極限の概念を導入.
 1932年のチューリヒのICMで球面の高次のホモトピー群を導入.ホモロジー論を局所ホモロジー論に拡張.モスクワのトポロジーの会議で彼の話を聞いたレフシェッツの招きでプリンストンへ(1935-36).  その後ブリュノでトポロジーのセミナーを始める.  [ワ] トップ

チェバ,ジョヴァンニ(Giovanni Ceva, 1647.12.7-1734.6.15).
 イタリア,ミラノに生まれ、マントヴァに死す。トマスの兄.
 ミラノのイエズス会カレッジで学んだ後.ピサ大学で学ぶ.その後ピサでも教えたが,1686年にマントヴァ大学教授になる.主なテーマは幾何で,ギリシャ時代から19世紀までの綜合幾何に捧げる.三角形の頂点を通る3直線が共点であるための条件を与える有名なチェヴァの定理は『相互に交わる直線について De lineis rectis 』(1678)にある.
 メネラオスの定理も再発見した.力学を幾何に応用する.また,無限小解析の萌芽的議論のあるGeometria Motus (1692) や,マントヴァの貨幣制度の均衡の条件を模索した数理経済学の最初期の仕事であるDe Re Nummeraria (1711),その知識でリノ川を分流してポー川へ流し込むという計画を止めさせた水力学のOpus hydrostaticum (1728)などの著作もある.    トップ

チェバ,トマス(Tommaso Ceva, 1648.12.20-1737.2.3).
 イタリア,ミラノに生まれ、ミラノに死す。ジョヴァンニの弟.
15歳のときイエズス会に入り,神学の学位を取得.ミラノにあるブレラのイエズス会カレッジで,40年以上数学と修辞学の教授を勤めた.弟子にはサッケーリがいる.ヴィヴィアーニやグランディ(Grandi)などの数学者たちと文通.
 数学的業績をまとめたOpuscula Mathematica には,幾何,重力,算術などが含まれる.直角を任意の数の角に等分する器具を発明した.
 ラテン語の詩人としても有名で,Jesus Puer は多くの言語に翻訳される.詩を作る方に数学よりも多くの時間を使ったという.   トップ

チェビシェフ(Pafnutii L'vovich Chebyshev=Tchebychef, 1821.5.16-1894.12.8).
 ロシア、オカトヴォに生まれ、サンクト・ペテルブルグに死す。
 ペテルブルグ大学教授(1847)。ペテルブルグ数学学派の創始者。整数論ではベルトランの仮説の証明。素数定理の証明の本質的部分。確率論では中心極限定理など。チェビシェフの不等式,チェビシェフの偏り,など名を冠するものも多い。 [解II.6], [名4], [珠説2.5], [天2, 4, 17] トップ

チェン(Jing-Run Chen=陳景潤, 1933.5.22-1966.)
 中国,福建省,福州に生まれ,北京に死す.1949年中学校卒業後厦門大学数学科に入学,卒業前に,成績優秀のため北京第4中学校の教師になる.余暇に華羅庚(Hua Luo-Geng)の加法的整数論を学ぶ.1954年厦門大学の図書館員となり,数学の研究を続けテーゼを出版.華羅庚の注目する所となり,1995年に北京の中国科学院・数学研究所の所員となる.以降,華羅庚の指導の下,精力的に研究を続ける.人民大の代議員になったり,科学院の正式会員にもなる(1980.11).2つの数学雑誌``Transactions of Mathematics''と``Mathematics Quartery''の主編集者も勤める.
 整数論.ヒルベルトの第8問題に強い関心をもち,ウェアリングの問題( g(5)=37 ),ゴールドバッハの問題,双子素数定理に貢献(1973).  [珠3.1, 説2.6, 3.11, 文] トップ

チホミロフ(Vladimir Mikhailovich Tikhomirov, 1934-.) A.コルモゴロフの下で,モスクワ大学で学位. モスクワ大学力学・数学部・最適制御講座主任.教育問題にも強い関心と貢献.多くの数学雑誌の編集者であり,啓蒙雑誌「クヴァント」の副編集長でもある.啓蒙書『最大と最小の話』も有名.モスクワ独立大学の創設者の一人.
 関数解析,極値問題,近似理論,凸解析. トップ

チャーン(Shiing-Shen Chern=陳省身, 1911.10.26-2004.)  中国浙江省嘉興に生まれ,天津に死す.
 天津の南開大学卒業(1930),精華大学大学院(1931-1934).1934年ハンブルク大学に入学し,ブラシュケ,E.アルティンに学び,理学博士(1936).パリに移動し,エリー・カルタンに学ぶ.1937年に精華大学教授となって帰国するも,日中戦争のせいで,大学は香港に移動し,南西連合大学となっていた.1938年,大学は昆明に移動し,1943年に,プリンストン高等研究所へ招聘される(-1945).ワイルアンドレ・ヴェイユと親交.戦後中国に帰国し,2年ほど中国科学院に関わり,アメリカに戻る.シカゴ大学教授(1949-1960)の後,カルフォルニア大学バークレイ校教授,バークレイ数理科学研究所所長(1982-84).1985年南開数学研究所初代所長に.
 バークレイを退職するときの記念シンポジウムの序文で,I.M.ジンガーは,「我々にとって,S.S.チャーンは現代微分幾何学そのものである」と語っている.
 閉じたリーマン多様体上のガウス-ボネの定理に与えた簡単な証明(1944),その後の特性類の研究にとって重要.チャーン類.  [ト6, 文] トップ

チャンドラセカラン(Komaravolu S.Chandrasekharan, 1920-)  インド,マドラス大学で,K.A.ラウの下で学位(1946).タタ研究所,チューリヒ工科大学教授.整数論(チャンドラセカラン・ページ関数).著書に『フーリエ変換』(1949,S.ボホナーと共著),『解析的整数論入門』(1968),『数論的関数』(1970),『楕円関数』(1985)など   [モ歴] トップ

チュドノフスキー,デイヴィッド(David Volfovich Chudnovsky)  第2次大戦後にウクライナ,キエフの生まれる.父親のヴォルフ・グリゴリエヴィッチはキエフ建築大学の土木工学の教授.母親も技師で,兄弟は早くから数学を教えられる.父親は1985年に心臓病で亡くなる.
 兄弟ともに整数論と数理物理学の研究者で,ブルックリンの工芸大学のindustry professorで,コロンビア大学の上級研究員.結婚して,弟のアパートの近くに住み,1日の大半を弟の家で過ごすらしい.
 弟のグレゴリーとともに,πの計算の世界記録を作る.1989年に金田・田村と,激しい競争を展開する.
 チュドノフスキーの公式と呼ばれる1/πに収束する無限級数を発見し,それを使って,4億8000桁,5億3533万桁,10億1119万6691桁と,次々と記録を発表した.ほとんどのステップで有理数表現を使っているので,計算の再スタートが可能である点が有利だが,桁数を上げると急速に時間が掛かるようになる.家のスーパーコンピュータを用いて,1991年に22億6000万桁,1996年3月80億桁以上の記録を作る.  トップ

チュドノフスキー,グレゴリー(Gregory Volfovich Chudnovsky)  デイヴィッドの弟.12歳のとき重症筋無力症と診断される.両親はこの病気の治癒・改善のため家族がウクライナを出国することの許可を得ることに成功し,1977年に出国し,初めパリに6ヶ月滞在し,その後ニューヨークに落ち着き,兄弟ともアメリカの市民権を得ている.現在は母親と二人でマンハッタンのウェスト・サイドに住んでいる.
 πの計算のためのスーパー・コンピュータの使用料が嵩むので,グレゴリーの自宅に自前のスーパーコンピュータを設置した.居間を占領した上,他の部屋にもはみ出しているという.    トップ

チルンハウゼン(Ehrenfried Walter von Tschirnhausen, 1651.4.10-1708.10.11.)
 ドイツ,キスリングスヴァルド(ゲルリッツの近く)に生まれ,ドレスデンに死す.
 1668年にライデン大学に入学し,数学,哲学,医学を学ぶ.1672年にフランスとオランダの戦争が起き,学生軍のリストには載ったが実戦には出なかった.1674年イギリスに行き,ウォリスコリンズと会い,またパリに留まりライプニッツホイヘンスと親しむ.
 方程式や曲線の研究をする.n次方程式から,xn-1 とxn-2の項を消去する変換(チルンハウゼン変換)を発見する.与えられた曲線で反射する点光源の光の包絡線を求める.渦状点を持つ曲線.代数,幾何,解析(カヴァリエーリの不可分量の方法)など著作多し.
 マイセンに彼の考案の磁器の工場ができる.ハレ大学から学長に招聘されたが断る.晩年は借金に苦しむ.  [パ15] トップ
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ツァッセンハウス(Hans Julius Zassenhaus, 1912.5.28-1991.11.21)
 ドイツ,コブレンツ=モーゼルヴァィスに生まれ,アメリカ,オハイオ,コロンバスに死す.
 1930年ハンブルク大学入学.初めは数学と原子物理に惹かれていたが,ヘッケとE.アルティン,特にアルティンにより数学に導かれ,その指導で学位を取る.そのころツァッセンハウスの補題を示した(ジョルダンヘルダーの定理の簡単な証明をするのに使う). 1934年の学位論文では,3重推移的なツァッセンハウス群の分類をする.この分類は後にゴーレンシュタインが指揮した有限単純群の分類で重要な役割を果たす.
 ロストック大学に勤務中(1934-36),アルティンの講義をもとに『群論講義』Lehrbuch der Gruppentheorieを書く.1936年ハンブルク大学でアルティンの助手になる.このころ有限標数のリー環の研究をする.
 ナチズムへの嫌悪感から正式の職につかず,第2次大戦中は天気予報の仕事をする.1934年にはボン大学から就任の教授就任の要請があったが受けず,戦後にナチに依って退職させられていた人に譲る.ハンブルク大学に戻り,その後1949年にモントリオール大学,1959年にノートルダム大学教授,1964年にオハイオ州立大学研究職教授になり退職まで勤める.
 現代代数学.環,有限群,普遍多元環,リー環など.また計算機を使った代数的整数論の方法を研究,ガロア群,整基底,類群などの計算をした. 『群論教程I』Lehrbuch der Gruppentheorie I (1937). 教育にも関心があり,『大学以前の代数の教育』On the teaching of algebra at the pre-college levelなどを書いた. [天5], [ワ1] トップ

ツアンネ・デ・トニニ・ダ・コイ(Zuanne de Tonini da Coi(Clolla), 16世紀)。
 タルターリアの故郷ブレーシャの数学教師。タルターリアに問題を出したり、カルダーノを訪れたりということだけで知られている人物。 [解I.1.5] トップ

ツィーグラー(G\"{u}nter M. Ziegler, 1963-).
 ドイツ,ミュンヘンの生れ.ミュンヘン大学卒業後,MITにおいて,アンダース・ベルナーのもとでPhD取得(1987).その後アウグスブルク大学やベルリン情報技術センター(ZIB)でポスドクをして,1695年からベルリン工科大学離散数学教授.離散幾何学,計算幾何学,代数幾何や位相幾何での組合せ論的方法,グラフ理論など.アイグナーとの共著『天書の証明』や『多面体講義』(Lectures on Polytopes)などの著書もある. [天7, 14] トップ

ツィオルコフスキー(Konstantin Eduardovich Tsiolkovsky, 1857.9.5(17)--1935.9.19.
 ロシア,リャザニ州,イジェーフスコイエ村の生まれ.生涯の大半をオカ河畔の町カルガの郊外で暮らす. 猩紅熱にかかってほとんど聴力を失う(1866).中学で数学を教えながら,ロケットの研究をする. ロケットや軌道エレベータの着想で知られ,現代ロケット工学の基礎的理論を構築した.ツィオルコフスキーの公式.「宇宙旅行の父」と呼ばれる. 1911年に知人への手紙の中で
地球は人の揺り籠であるが,永遠に揺り籠の中にいることはできない
と述べている.人類初の人工衛星スプートニクは彼の生誕100年を記念して1957年に打ち上げられた.
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ツヴァベリ(Helge Tverberg).
 ノルウェー,ベルゲン,ベルゲン大学数学科教授.グラフ理論,4色問題. [天8] トップ

ツェルメロ(Ernst Friedrich Ferdinand Zermelo, 1871.7.27-1953.5.21).
 ドイツ、ベルリンに生まれ、フライブルグに死す。
 フライブルク大学教授(1906)。1935年ヒットラー政権の拒絶により教授職を放棄し,1946年復帰する.
 ツェルメロの集合論、ツェルメロ-フレンケルの集合論。選択公理。変分法や統計力学の業績もある。カントール全集の編集。 [解文], [天15] トップ

ツェン,(そ・けいし,曽烱之,Chung-Tze Tsen, 1898.4.2-1940.11).
 中国江西省新建県上新建生米街(南昌市の近く)に生まれ,西昌市に死す.曽烱とも言い,現在のつづりでは Zeng Jiong と書かれるべきである.武昌高等師範学堂Wuchang Senior Normal College卒(1926).1928年ベルリン大学で語学研修の後,1929年夏,ゲッティンゲン大学に留学.ネーター・ボーイズの中の唯一の中国人.Chiungtze C.Tsenという綴りで,3編の論文を発表している.1934年2月20日PhDを取得.E.アルティンの招きでハンブルク大学へ.1935年7月中国に帰国.浙江Zhejiang大学の陳建功(Kien-Kwong Chen, 1893-1971)の招きで助教授になる.1937年夏,北洋工科大学Beiyang Institute of Technology(以前は北洋大学で,また後に天津Tienjinn大学に改名)の教授.日中戦争が激しくなってから,北京大学などと一緒に疎開し,一旦は西安,後に西康省西昌市Xichangに移る.1939年に作られた国立西康技芸専科学校National Xikang Institute of Technologyで働くが,劣悪な環境のため,42歳で胃潰瘍で死ぬ.正確な命日は知られていない.
 多元環の整数論や不定方程式論.「関数体上の加除代数」Divisionsalgebren uber Funktionenkorpern(Nachr. Ges. Wiss. Goettingen, Math.-Phys. Kl.1933, pp.335-339)に定理「代数的閉体の既約な代数曲線の関数体上には,それ以外の有限ランクの中心的多元体は存在しない」,「代数的閉体上の1変数有理関数体は準代数的閉体である.」1934年の学位論文はこの内容を詳しく述べ,ネーターとアルティンによる別証も載せたもの.第3論文は J.Chinese Math.Soc.1(1936), 81-92 に載った「可換体の準代数的閉性の段階理論について」Zur Stufentheorie des quasi-algebraisch-Abgeschlossenheit kommutaive Korper.   [代11] トップ

ツォイテン(Hieronymus Georg Zeuthen, 1839.2.15-1920.1.6. ).
 デンマーク,西ユトランド,グラムストループに生まれ,コペンハーゲンに死す. コペンハーゲン大学数学科に入学,修士修了(1862)後,パリに行きシャールに師事,強い影響を受ける.シャールのアイデアを押し進めた数えあげ幾何学で学位(1865).1871年よりコペンハーゲン大学特任教授と雑誌Matematisk Tidsskriftの編集者(18年間)になる. 1886年に通常教授になり,学長を2期勤める.
1875年以後,力学や代数幾何,特に代数曲面論に関して業績がある.与えられた曲線族に接する曲線の数を数えるなどの問題を考える.
古代ギリシャ数学史と近代初期の数学史の業績は有名.アポロニウスが斜交座標を使っていたことや,ピュタゴラス自身が浮Qの無理数性を示したこと,テオドロスの3,...,17の無理数性の証明に関して,テオドロスの目標が17と19の連分数展開にあったと論じている. 著書に『古代と中世の数学史』,『16,17世紀の数学史』. 19世紀末の数学史家としては,M.カントールと併称されている.
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ツォルン(Max A. Zorn, 1906.7.6-1993.3.9).
 ドイツ、クレフェルトに生まれ、アメリカ,インディアナ,ブルーミントンに死す。
 ハンブルク大学卒(1930),E.アルティンの弟子.短期間ハレ大学に勤務するが,ナチから逃れアメリカに亡命(1933).1933-1936の間はイェール大学のフェロー.このとき有名なツォルンの補題を発表.カリフォルニア大学ロスアンジェルス校助教授(1936-1946),インディアナ大学教授(1946-1971).インディアナ時代,毎日大学に現れ,あらゆる会合に出て,皆からマックスおじさんと,親しまれていたと言う.
 数学的には,集合論,トポロジー,代数学など.ケイリー数の一意性の証明も有名.  [代4] トップ

ツッカーマン(Herbert Samuel Zuckerman, 1912-1970). ワシントン大学教授.整数論.  I.ニーヴンとの共著『数論入門,第3版』(An Introduction to the Theory of Numbers, 1972:1991年版はH.モンゴメリとも共著)がある.  [名序2, 4], [天4] トップ


  
  
  
  
  

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