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 人名索引 らり


人名索引総目次  るれろ

ライゴロツキーライザーライトライプニッツ
ラ・イールラガリアスラグランジュラクロア
ラゲールラザフォードラタンラザリニ
ラーチラーデマッヘルラドー,T.ラドー,R.
ラドンラニー
ラプラスラマヌジャンラムゼイラメ
ラングランズフォードランスベルギウス
ランダウランベルト
 
リーリウヴィルリィジクリヴォー
リオーダンリコードリサージュリシャート
F.リースリスティング
リッカティ、ヤコポリッチ・クルバストロリッチリッツ
リトルウッドリニク
リプシッツリブリリベットリーマン
リャープノフリューベルリュステルニク
リューリエリューロートリンデマンリンデレーフリンド
リンドストレムリンドナー



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ライゴロツキー(Andrei M. Raigorodskii).
 モスクワの若い組合せ論家.  [天14] トップ

ライザー(Herbert John Ryser, 1923.7.28-1985.7.12).
 アメリカ,ミルウォーキーに生れ,カリフォルニア,パサデナに死す.
 ウィスコンシン大学でPhD取得(1948).オハイオ州立大学,カリフォルニア工科大学教授. 著書に『組合せ数学』(Combinaorial mathematics, John Wiley, 1963).エルデシュ数は2.  [天25] トップ

ライト(Edward Maitland Wright, 1906.2.13--2005.2.2).  イギリス,ファンレイに生まれ,リーディングに死す.  オックスフォード大学ジーザス校,クライスト・チャーチ,ゲッティンゲン大学で学ぶ.ロンドン大学,オックスフォード大学で教え,アバディーン大学数学科教授(1935-62),学長(1962-76).整数論,ベキ級数論,ウェアリングの問題.G.H.ハーディとの共著『数論入門I,II』(示野信一+矢神毅訳)シュプリンガー数学クラシックスが有名.  [珠文], [黄5], [天2] トップ

ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646.7.1-1716.11.14).
 ドイツ、ライプツィヒに生まれ、ハノーヴァーに死す。
 哲学・数学・法学・経済学者・政治家・外交官。父はライプツィヒ大学道徳哲学教授。早熟の天才。ライプツィヒ大学で法律を学ぶも,若すぎると学位を拒まれ(1666)、ニュルンベルクのアルトドルフ大学で法律の学位を得る(1667)。教授になるよう望まれるが辞退し、ヨーロッパを遍歴、マインツ選帝候の外交官となる(1666)。ドイツを攻めないように交渉する目的で、ルイ14世に会見するべくパリを訪問するが、会えないまま3年を過ごす。その際ホイヘンスに数学と物理学を学ぶ。マインツ選帝候の死後(1673)、ロンドンに滞在し、ニュートンバローの研究に接する。1676年以降ハノーヴァーのブラウンシュヴァイク家の図書館長。1700年ベルリン選帝候の招きで、ベルリンを訪れた際、ベルリン科学アカデミーを創設し、初代総裁となる。「モナド論」「普遍言語」。 [解0, I.1-2, 4-6, II.0-7, 10, III.2-3, 6-8, IV.0, 3, 5, 文], [パ序, 7-13, 15, 30-31, 附2, ノート, 年表], [名2] トップ

ラ・イール、フィリップ・ド(Philippe de La Hire, 1640.3.18 - 1718.4.21).
 フランス、パリに生まれ、パリに死す。
 画家としての教育を受け、ローマでの修行で、画業と遠近画法の為に幾何学を学ぶ。 王立科学アカデミー会員(1678)、コレージュ・ロワイヤル数学教授(1683)、更に建築学教授(1687)。
立体解析幾何学、総合幾何学の先駆者。 円錐曲線についての研究(1673,1679)ではデカルトの手法が用いられる。体系的に座標の方法を用い、「座標原点」の用語は現在も使われている。 広く受け入れられた『円錐曲線論』(Sectiones conicae, 1685)では、G.デザルグの射影幾何の方法が用いられている。デザルグの『草稿』は彼の筆写したものが1847年にパリの図書館で発見されるまで失われていた。またカージオイドの長さを計算する(1708)。
 天文学、物理学、測地学にも重要な寄与。パリ天文台に最初の経緯儀を設置。太陽、月、惑星の運動の表を作り、フランスの地図、特に海岸線の確定に尽力。 彼の世界地図は北極ではなく、北極と地球の中心との中点を中心として射影したものである。
 また、魔法陣についての著作もある。 トップ

ラガリアス(Jeffrey C. Lagarias).
 アメリカ,マレイ・ヒル,AT \& T, 数学・暗号研究部門所属. 数論,暗号理論,力学系,離散幾何など  [天6] トップ

ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange, 1736.1.25-1813.4.10).
 サルディニア・ピエモン、トリノ(現在イタリア領)に生まれ、パリに死す。
 トリノ王立砲兵学校数学教授(1755)、オイラーの後任としてフリードリヒ大王に招かれ、ベルリン科学アカデミー数学・物理学主任に('66-86)。翌年ルイ16世の招きで、パリへ(1787)。パリの科学アカデミー会員となる。エコール・ポリテクニーク初代校長(1794)。メートル法制定委員長。解析学、整数論、解析力学(力学を解析学の1分野に変える)。群論ヘの萌芽としての置換の研究。ラグランジュ点,ラグランジュの正三角形解,ラグランジュの未定乗数法,ラグランジュの最小作用の法則,ラグランジュの平均値の定理,平方数の和に関するラグランジュの定理,ラグランジュの方程式,ラグランジュ多様体,ラグランジュの運動方程式,ラグランジアン,ラグランジュ多項式,ラグランジュの補間多項式.
 フランス革命を生き残リ、化学者ラヴォアジェがギロチンに消えたとき、「この頭を落すには一瞬しか掛からないが、このような頭脳が生まれるのには百年でも足らない。」と言った。
文献
  1. 『音の伝播について』
  2. 『任意系の物体の微小振動について』
  3. 『最大値・最小値の方法の研究』(Recherches sur la methode de maximis et minimis), Misc. Taurinensia, トリノ、1(1759). 『全集』I, p.3-20.
  4. 『方程式の代数的解法に関する考察』(Reflexions sur la resolution algebrique des equations) (1770)
  5. 『回転楕円体の引力について』(Sur l'attraction des spheroi des elliptiques), Nouv. Mem. Acad. royale Berlin annee 1773, 『全集』(Oeuvres)3, p.619-649.
  6. 『再帰的数列についての研究』(Recherches sur les Suites Recurrentes), Nouveaux Mem. de l'Acad.royale des Sciences et Belles-Lettres, Berlin. 『全集』(Oeuvres)4, p.159.
  7. 『解析力学』(Mechanique analitique), ラグランジュ氏(M.de la Grange)による。パリ、1788。『全集』(Oeuvres)11,12.
  8. 『解析関数論』(Theorie des fonctions analytiques, contenant les principes du calcul differentiel, degages de toute consideration d'infiniment petits, d'evanouissans, de limites ou de fluxions, et reduits a l'analyse algebrique des quantites finies), A Paris, de d'imprimerie de la republique, Prairial an V(1797). 第2版 Gauthier-Villars出版社(1813).
  9. 『任意のベキの数字方程式の解に関する論文』(1798)
  10. 『関数解析講義』(1801-1806)
  11. 『全集』(Oeuvres), 14巻本(編者:J.-A.セレG.ダルブー), Paris, 1867-1882. 1973年再版, Georg Olms出版社、ヒルデスハイム。
[解I.1, 6, II.1-2, 6, 8, III.0, 3-4, 6-7, IV.3-5, 文], [パ20, 22, 24, ノート, 年表], [名5, 21], [珠2.1-2, 3.1, 説1.7.4, 3.5, 3.5.1, 3.6, 3.8, 3.9.1, 3.10], [代3, 8, コ], [天1, 5] トップ 1770 he also presented his important work Reflexions sur la resolution algebrique des equations

ラクロア(Sylvestre Francois Lacroix, 1765.4.28-1843.5.24.)
 フランス,メソンに生まれ,パリに死す.
 親は貧しかったが,G.モンジュの弟子となって世に出る.エコール・ギャルデ・ド・マリー・エ・ロシュフォールの教授(1782)をした後,エコール・ノルマルに移り,4国民の中央学校に移り,エコール・ポリテクニクの解析学教授(1799-1815),それからソルボンヌとコレージュ・ド・フランスの教授に(1815).
 数学の教科書を書き,フランスの数学教育の整備に大きな貢献.3巻の『微積分学通論』Traite Calcul differentiel et integral (1797-1800),10巻の『数学概論』Cours de Mathematique (1797-1799)など.英語に翻訳されイギリスにも大きな影響.
  [伝] トップ

ラゲール(Edmond Nicolas Laguerre, 1834.4.9-1886.8.14)
 フランス,バー・ル・デュクに生まれ,同地に死す.
 パリのエコール・ポリテクニク卒業後(1954),1864年まで砲兵士官を勤め,1864年から母校に戻り,後その死まで勤める.1864年からはコレージュ・ド・フランス教授でもある.
 幾何学,代数学,関数論.幾何学の計量的性質を射影幾何的見地から見直し,射影幾何が全幾何を包摂するという考え方がはやった.後,ケイリーF.クラインなどにより,変換群を幾何的見地から捉えるという考え方の中で忘れられて行くが,歴史上重要な一歩であった.
 ラゲール多項式,ラゲール(微分)方程式,ラゲール級数,ラゲール変換,ラゲールの反転など. [天16] トップ

ラザフォード(William Rutherford,1798--1871.9.16).
 天文学者だが,数学の教科書も多数執筆.
 弟子のシャンクスとともに,πの桁数の記録を塗り替えていく.1824年にπを208桁計算したと発表したが,後ダーゼにより,153桁目の誤りを指摘される.後1853年に441桁の計算をする.同じ時期シャンクスが計算した530桁と441桁目まで一致していたので,441桁までの正しさを確認.シャンクスの記録はラザフォードの著書の中で発表される.  計算式はマチンの公式の変形
      π/4 = 4 tan-1(1/5) - tan-1(1/70)+ tan-1(1/99)    
だった.  トップ

ラザリニ(Mario Lazzarini). 1901年にラザリニはビュフォンの針の実験をした. 彼は幅dの罫線を引いた紙の上に長さ 5d/6 の棒を 3408 回落とす機械を作り,実験. 線と $1808$ 回交差したので,π〜 2・5/6 ・3408/1808 =3.1415929.... という近似値を得た.余りに良過ぎる値で,作為が見え透いていて,捏造であると思われている.正しいと分かった入ることを実験で確かめるということの難しさを示すものとして有名. [天20] トップ

ラタン(M. L. Latham). デカルトの『幾何学』の英訳。 [解文] トップ

ラーチ(Mathias Lerch, 1860.2.20-1922.8.3).
 ボヘミア、ミリノフに生まれ、チェコスロヴァキア、Susiceに死す。
 プラハで学んだ後、ベルリンでワイエルシュトラスクロネッカーフックスに学ぶ(1884-85)。プラハのチェコ工科大学(1886)、ドイツのフライブルグ大学(1896)、チェコ共和国に戻り、ブリュノ(Brno)のチェコ工科大学数学教授(1906)。解析の基礎、整数論、作用素論、数値解析。 [解III.7, 9, 文] トップ

ラーデマッヘル(Hans Rademacher, 1892.4.3-1969.2.7.)
 ドイツ,シュレジッヒ・ホルシュタイン,ヴァンシュベクに生まれ,アメリカ,ペンシルヴァニア,ハーヴァーフォードに死す.
 変分法をカラテオドリに学び,数論をランダウに学んだ.ベルリン,ハンブルク,ブレスラウ大学で教えていたが,平和主義者のため1933年ドイツを逐われ,アメリカに移住する.ペンシルヴァニア大学教授定年(1962)後は,ニューヨークのロックフェラー研究所.実関数論,直交級数論,数論.分割関数の増大の漸近公式で有名.
 日本語に訳されているものにテプリッツとの共著『数と図形』(山崎三郎+鹿野健訳)日本評論社(1989)がある. [珠3.1, 文], [ブ50] トップ

ラドー、ティボール(Tibor Rado, 1895.6.2-1965.12.12).
 ハンガリー、ブダペストに生まれ、アメリカ、フロリダ、ニュー・スミルナ・ビーチに死す。
 1915年兵役、ロシアと戦い捕虜となる。4年間の抑留の際、読める本が数学だけだったという。解放後、ゼゲド大学で学び、F.リースのもとで学位取得。1929年アメリカに渡り、ハーヴァード、ライス大学を経て、オハイオ州立大学教授(1930)。共形写像、実解析、変分法、偏微分方程式、積分論、トポロジー。コンパクトな曲面が三角形分割できることの証明、等周不等式の証明(1947)、プラトーの問題の解決(ダグラスとは独立に)。 [解II.6] トップ

ラドー、リヒャルト(Richard Rado, 1906.4.28-1989.12.23).
 ドイツ,ベルリンに生まれ,イギリス,バークシャー,レディングに死す.
 子供のときに,ピアニストと数学者の選択をし,数学を選んでベルリン大学に入学.ゲッティンゲンにも行ったが,ベルリン大学でシューアの下で,組合せ論をテーマに学位(1933).この頃ナチが勢力を強め,ユダヤ人だったので家族共々イギリスに移住.ケンブリッジ大学でハーディのもとで第2のPhD(「数列の線形変換」Linear transformations of sequences)を取得.
 エルデシュと文通を始め,1934年に始めてあって以来共同研究をして,共著論文は18を数える.
 シェフィールド大学(1936),ロンドンのキングズ・カレッジ(1947),レディング大学教授(1954-1971).数論,組合せ論,級数論,不等式,グラフ理論.
 ヒンチン『数論の3つの真珠』に紹介されたファン・デル・ヴェルデンの定理の一般化.   [天22] トップ

ラドン(Johann Karl August Radon, 1887.12.16-1956.5.25).
 ボヘミア,テツチェン(Tetschen)(現在チェコ共和国,デチン(Decin))に生まれ,オーストリア,ウィーンに死す.
 ウィーン大学卒業,変分法に関する研究で学位取得(1910).ハンブルク大学助教授(1919),グライスヴァルド大学教授(1922).その後,エルランゲン大学(1925),ブレスラウ大学(1928-45).ウィーン大学(1947-死).オーストリア科学アカデミー会員(1947).
 変分法,実変数関数論,関数解析.変分法を微分幾何に適用し,さらに数論への応用を得る.ラドン測度,ラドン変換. [パ附2], [名20] トップ

ラニー(Thomas Fantet de Lagny, 1660.11.7-1734.4.11).
 フランス、リヨンに生まれ、パリに死す。
 リヨンのイエズス学院で学んだあとツールーズで法律を学ぶ。1686年からパリで家庭教師を10年間する。ド・ロピタルと共同作業をし、1695年には王立科学アカデミー会員に。2年後ロシュフォールで水路学教授に。王立図書館員にもなる。1719年に円周率を127桁計算した以外には、その時の級数の収束、連分数が収束のもっとも悪いのはフィボナッチ数列になっている場合であること(1733)など。[解I.4] トップ

ラプラス(Pierre Simon Laplace, 1749.3.28-1827.3.5).
 ノルマンディ、ボーモン・タン・オージュに生まれ、パリに死す。
 ナポレオンにより伯爵,内務大臣に、ルイ18世により侯爵に。ナポレオンは回想録の中で、内務大臣にしたラプラスを6週間で解任した理由を「政府に無限小の精神を導入したから」と述べている。
 確率論,天体力学,ポテンシャル論,微分方程式,積分方程式論,熱伝導論,静電磁気学,流体力学など. 太陽系の安定性を証明(『天体力学論考』Traite de mecanique celeste, I-V, 1799-1827).満ち潮の動力学.ラプラスの魔,ラプラシアン,ラプラス方程式.
 日本語の本に、『ラプラス 確率論』現代数学の系譜12(伊藤清・樋口順四郎訳・解説,共立出版)、『確率の哲学的試論』(内井惣七訳、岩波文庫) がある。 [解II.6, III.7, IV.4, 文], [パ5, 19-22, 24, ノート, 年表], [代8] トップ

ラマヌジャン(Srinivasa Aiyangar Ramanujan, 1887.12.22-1920.4.26.)  インド,タミール・ナブ州,エロデに生まれ.タミール・ナブ州,クンバコナンに死す.
 独学の数学者。天才であることは誰も否定できない.彼が示した事実がなぜ得られたかも,何故彼がそういう能力を持ち得たかも,誰も知らない.
 インドの数学雑誌に載った論文で注目され,G.H.ハーディによって,ケンブリッジのトリニティ・カレッジに招かれ(1914.3.17),病を得て帰国(1919.2.27).1年後病死。
 整数論,級数論,連分数論,楕円関数論など,特に今なお正しいかどうかも不明な多くの等式を与えている。
 最近『ラマヌジャン書簡集』シュプリンガー・フェアラーク東京(2001)が翻訳されたので参照されたい.  [名2], [天2]  トップ

ラムゼイ(Frank Plumpton Ramsey, 1903.2.22-1930.1.19)
 イギリス,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに生まれ,ロンドンに死す.
 ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ(1920-23)に学ぶ.卒業後,短期間ウィーンに行った後は,ケンブリッジ大学キングズ・カレッジのフェロー(1924),講師(1926).
 組合せ論,論理学(ラッセル・ホワイトヘッドの理論の簡易化),代数曲線,離散数学,グラフ理論.ラムゼイ数,ラムゼイ・グラフ,ラムゼイ問題.  [天21, 32] トップ

ラメ(Gabriel Lame, 1795.7.22-1870.5.1.)  フランス,トゥールに生まれ,パリに死す.
 エコール・ポリテクニーク出身.ロシアの運輸交通大学教授(1820-1831),エコール・ポリテクニーク教授(1832),ソルボンヌ教授(1848).数理物理学,代数学,幾何学.ラメ関数.p=7 の場合のフェルマの最終定理の証明(1839).  [名3] トップ

ラング(Serge Lang, 1927.5.19-.)
 フランス,パリ生まれのアメリカの数学者.プリンストン大学で博士号取得(1951).
 エミール・アルティンの弟子.代数幾何学から入り,ディオファントス近似,超越数論,複素双曲空間,スペクトル分解など多岐にわたる.
 また,代数,解析,表現論,整数論など多方面で大量の教科書を書いている.日本語に訳されたものも多く,『さあ数学しよう!−ハイスクールでの対話−』,『ラング 解析入門』岩波書店,『ラング現代微積分学』ダイヤモンド社, 『数学の美しさを体験しよう--三つの公開講座』 森北出版などがある.  [解人], [ト文], [ブ50] トップ

ランズフォード(Thomas. J. Ransford).
 イギリス,ケンブリッジ大学数学・数理統計学科でPhD取得(1984).現在,カナダ,ケベック,ラヴァル大学数学・統計学科教授. [天6] トップ

ランスベルギウス(Lansbergius=Philip van Lansberge, 1561.8.25-1632.12.8).
 ベルギー、ゲントに生まれ、オランダ、ミドルブルグに死す。
 プロテスタントの牧師。天文学・数学者。πを28桁計算(1616)。コペルニクスを支持したが、ケプラーの楕円理論は拒絶する。[解I.4] トップ

ランダウ(Edmund Georg Herman Landau, 1877.2.14-1938.2.19).
 ドイツ、ベルリンに生まれ、ベルリンに死す。
 ベルリンにあるフランスのリセを2年少なく16才で卒業後、ベルリン大学で数学を学ぶ。フロベニウスの指導のもと、1899年に整数論で学位。数学パズルにも興味を持ち、学位取得の前にもチェスについての数学理論の本を2冊書いている。1901年に教授資格を得ているが、その際フロベニウスはランダウの仕事に、リーマン予想が証明されてしまったら(2002年現在証明されていないが)重要さを失うという理由で、批判的であったという。
 ベルリン大学(1899-1909)で教え始めて、1904年には自分の年(27)より著書の数が多くなる。教授能力に目覚める。初心者コース、自分の専門の数論、数学の基礎、無理数論、集合論などの講義をする。 1909年にミンコフスキーの後任としてゲッティンゲン大学教授(-33)になる。1913年にF.クライン引退後の後任問題がこじれる。カラテオドリヘッセが就任したがすぐに転出。ランダウはユダヤ人のI.シューアを押したが、クーラントに決まる。その後、ナチ政権に大学を追われ、オランダに亡命、ケンブリッジ大学(1935−1937)、ブリュッセル大学(1937-)。ゲッティンゲンの教授職を免職になる切っ掛けになったのは,πの定義を cos の最初の正の根の倍という定義を,1934年発行の数学概論の中で行い,それが大論争を引き起こしたことに寄る.
 主な業績は解析的整数論と素数分布。1896年のヴァレ・プーサンアダマール素数定理の証明を大幅に簡略化(1903年)。 解析的数論の始めての系統的な書物と1変数解析関数論の書物も重要。 [解III.1, 9, 文], [名人], [珠2.2-3, 3.1, 説2.2.5, 3.10] トップ

ランベルト(Johann Heinrich Lambert, 1728.8.26-1777.9.25).
 フランス、アルザス、ミュールハウゼンに生まれ、プロシャ、ベルリンに死す。
 哲学・物理学・数学・天文学者。光度計・熱度計・湿度計の発明。画法幾何・非ユークリッド幾何の先駆者。e,π の無理数性の証明(1766)、素数表を102000まで拡張(1770)。[解I.4, 6, II.6, 文], [名2], [天6] トップ
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リー、ソフォス(Marius Sophus Lie, 1842.12.17-99.2.8).
 ノルウェー、ノルフィヨルデイドに生まれ、クリスチャニアに死す。
 牧師の子として生まれる。クリスチャニア大学で学んだが(1859-1865)(シローの群論の講義を聴く)、数学をする決心がつかないでいた。1868年ポンスレとプリュッカー(1801-1868)の幾何の論文を読んで決心。1869年ベルリンに行きF.クラインに会う。ともにパリに行き、そのとき接触変換を発見。普仏戦争でドイツのスパイとして逮捕、ダルブーのとりなしで釈放。クリスチャニアに帰り、1872年学位を取得し、彼のために設けられた教授職につく(-1886)。クラインの後任としてライプツィヒ大学教授(1886-1898)。晩年クラインと諍い。1899年はまた彼のために作られたクリスチャニア大学教授職を勤めながら、悪性貧血のため死す。
 微分方程式のガロア理論を目指す。リー群・リー環論。ヘルムホルツ--リー理論,リー理論.リーの理論をエンゲルがまとめた『変換群論 全3巻』Theorie der Transformationsgruppen (1888-93) .     [解文], [パ16, ノート, 年表], [名20], [代15-21, コ] トップ

リウヴィル(Joseph Liouville, 1809.3.24-1882.9.8).
 フランス、サン・オマーに生まれ、パリに死す。
 エコール・ポリテクニーク教授(1833),経度局員(1862).楕円関数論,微分方程式論,積分方程式論(スツルム--リウヴィル理論). e の超越性、代数学の基本定理の証明の簡単化。
 純粋応用数学雑誌(リウヴィル誌)の刊行(1836)。ガロアの論文を整理し、この雑誌に掲載してから、ガロアの業績が世に知られるようになった。 [解II.6,9], [パ31, 年表], [名4-5, 15], [珠3.1, 説3.8, 3.10], [代序, 15, 21, コ] トップ

リィジク(I.M.Ryzhik). 関数の積分の大部の表. [解II.4] トップ

リヴォー(Tanguy Rivoal).
 カーン大学で学位(2001).数論.パリ,ピエール・マリーキュリー大学,ジュスィユー数学研究所. [天6] トップ

リオーダン(John Riordan, 1903-).
 組合せ論.著書に『組合せ論的解析学入門』(1958),『組合せ論的恒等式』(1968)(ともにJohn Wiley社).. [天24] トップ

リコード、ロバート(Robert Recorde(=Ricorde), 1510-1558).
 ウェールズ、テンビィに生まれ、イギリス、ロンドンに死す。  数学のイギリス学派を確立し、イギリスに代数を最初に導入した人といってよく、ドイツでシュティーフェルが行った役割をイギリスで果たした人と言うことができる。 『才知の砥石』(1557)に初出の等号「=」を発明したことは不朽である。
 オックスフォードとケンブリッジで数学を学びかつ教え、1545年にケンブリッジで医学の学位を得、エドワード6世とメアリ女王の侍医となる。 1551年以来アイルランドの鉱山と通貨の監督官を勤める。 サウスウォークのキングズベンチ牢で獄死した理由は、そこでの不正なのか、宗教的理由なのか、女王の死の直前でもあることから政治的理由なのか明らかではない。
多くのテキストを書いたが、『諸術の基礎』(1540)は算術と商業への応用を扱っており、アラビア数字と筆算、算盤での計算などを紹介したもので24版以上を重ねている。 後のガリレイのように、平易な言葉での対話形式のものが多く、イギリスでは大変普及したが、大陸での影響力は大きくなれなかったのかも知れない。
『知識の城』はコペルニクスの体系を認めている天文学書であり、 『知識への小道』(1551)はユークリッドの『原論』の抄訳である。
 等号を公表した『才知の砥石』の砥石のラテン語が cos であって、未知量 coss との地口のしゃれである。この本から引用する。

 「わたし自身がすでに用いているように、実際の計算では一組の平行線、つまり同じ長さの2本の線 == を使うことを提案する。2つのものが等しいことを表わすのにこれ以上の表現方法はないからである。」

しかし、等号「=」はすぐには普及せず、後にトーマス・ハリオットが不等号を発明したときにこの等号を再評価したことから認知されるようになっていく。 トップ

リサージュ(Jules Antoine Lissajous, 1822.3.4-1880.6.24.)
 フランス,ヴェルサイユに生まれ,プロンビェールに死す.
エコール・ノルマル・シュペリオール入学(1841).後,リセ・サン・ルイの数学教授.シャンベリ・アカデミー校長(1874),ブザンソン・アカデミー校長(1875).
 1850年にクラードニの砂のパターンを使う振動の結節点の決定で賞を受ける.1855年音波の生み出す振動(音叉の振動を鏡に伝えて)を視覚的に描く. 振動の光学的観察.リサージュ図形. [パ:ノート, 年表] トップ

リシャート(Norman Richert). テキサス、ヒューストン大学。[解I.4, 文] トップ

リース,フリージェシ(Frigyes Riesz, 1880.1.22-1956.2.28).
 オーストリア--ハンガリー帝国(現在ハンガリー領),ジュールに生まれ,ハンガリー,ブダペストに死す.マルセル・リースは弟.
 ブダペスト大学,ゲッティンゲン大学を卒業.ブダペスト大学教授(1945).
 位相空間論,関数解析学の創始者の一人.量子論(行列力学と波動力学の同値性の基礎),エルゴード理論,D.ヒルベルト空間のフーリエ解析.トポロジー.S.ナジーとの共著『関数解析講義』でも有名.リース・フィッシャーの定理. [天17] トップ

リスティング(Johann Benedict Listing, 1808.7.25-1982.12.24).
 ドイツ,フランクフルト・アン・マインに生まれ,ゲッティンゲンに死す.
 ゲッティンゲン大学でガウスの弟子になり(1829),卒業後に講師となり,1939年追放されたウエーバーの職を受け継ぎ,1849年物理学教授に.光学と応用数学の業績が多いが,1847年に出版された『トポロジーに関する予備研究』Vorstudien zur Topologieで初めてトポロジーの語が使われる.しかし,その後もこの分野は「位置解析学」Analysis situsと呼ばれ続け,英語のTopologyという語は1920年代後半に,レフシェッツが使うまでは使われなかった.
 1858年にメビウスの帯を,メビウスと独立に発見.   [列2] トップ

リッカティ、ヤコポ(Jacopo Francesco Riccati,1676.5.28-1754.4.15).
 ベネツィア共和国、ベネツィア(現在イタリア領)に生まれ、ベネツィア共和国、トレヴィソに死す。法律を学ぶためにパドゥア大学に入ったが、友人のアンジェリの勧めで数学に。1747年からベネツィアに住み、運河の堤防建設の助けをする。 ニュートンの業績をイタリアに紹介、リッカティの微分方程式。微分方程式の階数を下げる方法と変数を分離する方法が重要。 [解II.7] トップ

リッチ・クルバストロ(Gregorio Ricci-Curbastro, 1853.2.16(1.12?)-1925.8.6).
 教皇領ルーゴ(現在イタリア領)に生まれイタリア、ボローニャに死す。
 F.クラインとブリルの講義を聴き,ディニの助手になる.ピサ大学卒業.パドゥア大学教授(1880-1925).
 初期は数理物理学,特に電気回路と微分方程式.後,微分幾何学に転向,ガウスを一般化した絶対微積分法を発明(1884-1894),テンソル解析の基礎を与える.1900年以降の仕事の多くは弟子のレヴィ・チヴィタとの共同研究.
 リッチ曲率,リッチ・テンソル. [代17] トップ

リッチ、ミケランジェロ(Michelangelo Ricci, 1619.1.30-1682.5.12).
 イタリア、ローマに生まれ、ローマに死す。
 トリチェリの親友で、共にベネデット・カステルリ(Benedetto Castelli, 1578- 1643.4.19)の弟子。ローマで神学と法律を学ぶ。この時期、ド・スリューズとも友人となり、この3者は数学を学ぶ上で影響を及ぼしあった。
 1650年以降教会から給付を受け、1681年教皇イノセント11世により枢機卿に任ぜられる。
 『幾何の演習書』、『最大値と最小値』(1666) が主な業績。後者はニコラウス・メルカトールの『対数術』(1668.9)の付録として再録され、19ページのその付録のお陰で有名になる。そこでは、xm(a-x)n の極大値と ym = kxn への接線を与えている。 方法は、帰納法の初期の例となっている。螺線(1644)、一般サイクロイド(1674)を研究したり、接線を求めることと面積を求めることが逆演算であることを述べる(1668)。
 彼の名声は出版物よりも、クラヴィウスヴィヴィアーニ、ド・スリューズなど多くの数学者との文通によるものである。  トップ

リッツ(David Rytz, 1801-1868).
 共役直径を与えると,それが定める楕円の主軸が求まる.その一つの方法として,スイスでは広く知られたものにリッツの方法がある.詳しくは [黄3] を.  トップ

リトルウッド (John Edensor Littlewood, 1885.6.9-1977.9.6.)
 イギリス,ケント,ロチェスターに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
 ケンブリッジ大学,トリニティ・カレッジに学ぶ(1907卒).マンチェスター大学(1907-10),トリニティ・カレッジ(1910-,教授1928-50).G.H.ハーディとの共同研究(35年間)で,整数論,級数,リーマンのゼータ関数,不等式,関数の理論などに成果.
 日本語の本に『リトルウッドの数学スクランブル』(金光滋訳)近代科学社(1990), H.ハーディ+リトルウッド+G.ポーヤ>『不等式』(細川尋史訳)シュプリンガー数学クラシックス11(2003)がある. [名人], [珠訳序, 3.1, 説3.10-11, 文], [天16,18],[ワ] トップ

リニク(Yurii Vladimirovich Linnik, 1915.1.21-1972.6.30.)
 ウクライナ,ベラヤ・ツエルコフに生まれ,ソ連,レニングラードに死す.父の V.P.リニクも有名な科学者で,息子と同じくソ連科学アカデミー会員.
 レニングラード大学卒(1938),教授(1944).数論,確率論,数理統計学.中心極限定理の情報理論的証明.整数論における大きなふるいの方法.3素数のゴールドバッハ予想のヴィノグラードフの定理の新証明.ウェアリングの問題の初等的証明(1924). [珠序, 訳序, 3.1]トップ

リプシッツ(Rudolf Otto Sigismund Lipschitz, 1832.5.14--1903.10.7. )
 ドイツ,ケーニヒスベルク(現在ロシア領,カリーニングラード)に生まれ,ドイツ,ボンに死す.  
 若くしてケーニヒスベルク大学に入学し,フランツ・ノイマンに学ぶ.ついでベルリン大学でディリクレに学ぶが,健康に勝れず,学位取得は1853年8月9日.その後4年間,ケーニスベルクとエルビングのギムナジウムで教えた後,ベルリン大学私講師(1857),ブレスラウ大学員外教授(1862),ボン大学正教授(1864-).1872年11月に亡くなったクレプシュの後任として,ゲッティンゲン大学から招請があったが,ボンの居心地がよくて断った.1868年にF.クラインの博士論文の試験官になったが,当時クラインがゲッティンゲンにいたなら,申し出を受けたかもしれないという.
 研究は多方面にわたる.整数論,ベッセル関数論,フーリエ級数論,常および偏微分方程式論,解析力学,ポテンシャル論.2次微分形式と力学に関する研究からくる,リーマン幾何の彼の力学的解釈がアインシュタインの特殊相対性理論への道を拓いた.一般力学系の運動方程式のハミルトンヤコビの方法.正規形の常微分方程式の解の一意的存在を与えるリプシッツ条件で知られる.
 代数的整数論の研究から,四元数の研究,その拡張としてクリフォード代数を再発見し,それをユークリッド空間の回転に応用することでスピン群 Spin(n) を導入した.  [伝]トップ

リブリ(Count Guglielmo Libri Carucci dalla Sommaja, 1803.1.1--1869.9.28.)
 ピサ大学卒.17歳のときの整数論の論文で高く評価され,1823年にピサ大学数理物理学教授に任命され,パリに行く.1830年にイタリアに戻ると政変に巻き込まれ,フランスに逃げ,フランス市民となる.多くの科学者や数学者との交流.[伝]トップ

リベット(Kenneth A. Ribet.)
 カルフォルニア大学バークレイ校教授. p進L関数,円分体など整数論.フェルマの最終定理の証明に寄与. [名3]トップ

リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann, 1826.9.17-1866.7.20).
 ハノーファー、ブレセレンツ(ダンネベルクの近く)に生まれ、イタリア、マッジョーレ湖畔のセラスカに死す。
 ゲッティンゲン(1845-47,1949-51)でガウスに学び,ベルリン(1847-49)でディリクレヤコビに学ぶ.51年ガウスの下で学位取得.物理学者ヴェーバー(Wilhelm Eduard Weber, 1804-1891)の助手を2年勤め,1857年には助教授.1854年6月10日の教授資格取得講演での『幾何学の基礎にある仮説について』は数学の古典である.
 ゲッティンゲン大学教授(1859-)。 ゲッティンゲン大学教授(1859-)。1862年肺結核にかかり、その後療養のため大半をイタリアで過ごす。
 リーマン多様体(幾何学)、リーマン積分、リーマン・ゼータ関数(リーマン予想)、リーマン面,リーマン・ロッホの定理。リーマンの名に触れずに現代数学を語ることは難しい。[解III.2-3, 5, 8-9, IV.4-5, 文], [パ24-25, 31, 附1, 年表], [名2, 15-16, 18, 20, 文], [ト文], [珠説2.2.4], [代1, 4, 7-8, 13-15, 17, 19, 21-22, コ], [天2,6,19] トップ

リャープノフ(Aleksandr Mikhailovich Lyapunov, 1857.6.6--1918.11.3.)
 ロシア,ヤロスラヴリに生まれ,オデッサに死す.
 ペテルブルグ大学でチェビシェフに学ぶ(1876--1880).ハリコフ大学教授.力学系の安定性理論(リャープノフ関数),ポテンシャル論,確率論(中心極限定理の簡明な証明). [伝]トップ

リューベル(David Lubell)
 アメリカ,ニューヨーク州,アデルフィ大学数学・計算機学科教授(1975-).組合せ論的解析,確率解析,差分方程式など. [天22]トップ

リュステルニク(Lazar' Aronovich Lyusternik, 1899.12.31-1981.7.23.)
 ポーランド,ズドニスカ・ボーラの生まれ.モスクワ大学卒(1922),教授(1935).N.ルージンの下で,「変分法の直接法」という論文でモスクワ大学から学位取得(1926).
 関数解析,変分法,トポロジー,計算数学.トポロジー的手法を変分法のみならず解析学全般への応用を展開. ディリクレ問題の解法に有限差の方法を使う(1924).閉測地線に関するポアンカレの問題を解く(1929,リュステルニク・シュニレルマンの定理).線形および非線形微分方程式の固有値問題.
 M.A.ラヴレンティエフとの共著『変分法基礎』とV.I.ソボレフとの共著『関数解析入門』以外にも多数の教科書がある.  [伝]トップ

劉徽(りゅうき)(Liu Hui, 220年頃--280年頃)
 中国魏晋期の数学者.三国時代魏の景元4年(263)に九章算術(Jiuzhang Suanshu ; The Nine Chapters on the Mathematical Art)の注釈を作る(問題の解答を与えるために,理論的な進展を行っている). 注の中で,プリズム,ピラミッド,四面体,くさび,円柱,円錐,円錐台などの体積は求めたが,球の体積は求めていない.連立1次方程式を解く際に負の数も使っている.
 太陽の高さを測る目的で重差術を発明,この注釈に付加した.後に海島術と名づけるが,タレスがピラミッドの高さを測ったより優れた方法で,離れたところにある島の高さを,相似を用いて測る術である.(唐初以後,彼の追加した付録(で残っていた部分)をまとめ,李淳風が注を施したものを『海島算經』というようになる.)
 内接96角形の辺の長さの計算から,πを3.141とした.九章算術ではπ=3,張衡(Zhang Heng,78-139)はπ=√10(100年頃)とされていた(漢書律歴志による).反復による極限の概念はあったようだ.
 劉徽はまた,近似値よりも正確な値を与えるために,平方根の値を計算せずにそのままにしておくことにした最初の人でもある.彼はまた数学だけでなく,文学や歴史にも造詣が深かったようである.  トップ

リューリエ(Simon Antoine Jean Lhuilier, 1750.4.24-1840.3.28).
 ジュネーヴ(現在スイス領)に生まれ、スイス,ジュネーヴに死す.
 ポーランド王家の家庭教師,ドイツ,またスイスのジュネーヴ大学の数学教授(1795-).ポーランド国民学校用の,極限の概念を用いた幾何と代数の教科書を書く.初めて limΔy/Δx という記号を導入.オイラーの多面体定理と例外の研究. [名18] トップ

リューロート(Jakob Luroth, 1844.2.18-1910.9.14).
 ドイツ、マンハイムに生まれ、ミュンヘンに死す。
 天文学を志して、天体観察もしたが、眼が悪いので断念する。ハイデルベルク、ベルリン、ギーセン大学で学び(1863-1866)、2年間ハイデルベルク大学で教える。カールスルーエ工業高校(1868-1879)、ミュンヘン工業高校(1880-1882)、フライブルグ大学教授(1883-)。代数形式の不変式論のクレプシュ-リューロートの方法。有理関数体の部分体を特徴づけるリューロートの問題(1876)。 [解III.4, 文] トップ

リンデマン(Carl Louis Ferdinand von Lindemann, 1852.4.12-1939.3.6.)
 ハノーヴァー公国(現在ドイツ領)ハノーヴァーに生まれ,ドイツ,ミュンヘンに死す.
 エルランゲン大学卒業(1873).F.クラインの指導で,非ユークリッド直線幾何と非ユークリッド運動学に関する学位論文.ケーニヒスベルク大学に勤めた後,1893年からミュンヘン大学教授. 数論,代数幾何学.C.エルミートの手法を用いて πの超越性を証明(円積問題の不可能性を示した).  [名4, 15, 19] トップ

リンデレーフ(Ernst Leonhard Lindel\"{o}f, 1870.3.7-1946.6.4)
 ロシア帝国,ヘルシングフォルス(現在フィンランド,ヘルシンキ)に生まれ,フィンランド,ヘルシンキに死す.
 父親のレオナルド・ローレンツ・リンデレーフ(1827.11.13-1903.3.3)はヘルシングフォルス大学の数学教授(1857-74),学長(1869-74),フィンランド文部大臣(1874-1902).
 ヘルシングフォルス大学入学(1887),1891年はストックホルム大学,1893-1894年はパリで過ごし,1895年にヘルシングフォルス大学卒業し,私講師に.1901年にゲッティンゲン大学に行き,1902年にヘルシングフォルス大学に戻り准教授,1903年に正教授(-1938).1907年からアクタ・マテマティカの編集委員.
 微分方程式の解の存在証明(1890),解析関数(テイラー級数の漸近挙動の研究にミッタク・レフラーの研究を応用した),特に特異点のまわりの研究,共形写像.著書に『留数計算と関数論への応用Le calcul des residus et ses applications a la theorie des fonctions』(1905), 『微積分学とその応用』4巻(1920-1946),『関数論入門』(1936).
 彼の名に因んでリンデレーフ空間(リンデレーフ性を持つ空間). [伝] トップ

リンドストレム(Bernt Lindstr\"om)
 ストックホルム大学数学科.のちストックホルム王立工科大学に移籍し,そこで引退.組合せ論. [天23]トップ

リンド(Henry Rhind)
 スコットランドの弁護士.考古学愛好家で,エジプトのルクソールを訪れたとき,パピルスを購入した(1858年).当時は盗掘が横行していた.近くのテーバイから出たものともいう.死後大英博物館に寄贈される.そのときにはいくつかの断片が欠けていた.
 リンドと同じ頃ルクソールにいたアメリカ人のエドウィン・スミスも多くのパピルスを購入し,後にニューヨ−クの歴史協会の所有となった.この中から欠けていた断片が発見され,完全なテキストが得られた. ちなみに,医学関係のパピルスも購入し,後一部をドイツ人考古学者ゲオルグ・エーベルスに売却したため,それぞれがスミス・パピルスとエーベルス・パピルスと呼ばれている.
 算術・幾何に関する部分は,アーノルド・ブッファム・チェイスによって解読・翻訳され(1927),日本でもA.B.Chace著『リンド数学パピルス』(平田寛監修,吉成薫訳)朝倉書店(1858)として手に入れることができる.
 パピルスは長さ544cm,幅33cmである.ヒクソス王朝時代の王ア・ウサル・レイ(BC1650頃)に書記官であるアーメスが筆者したもので,中王朝期の(紀元前1900-1786)のアメンホテップ3世(BC1849--1801)時代の古書を再現したものと書いてある.最近の研究では,原著者はゾーゼルというファラオの建築技師で,サッカラのピラミッドの建築者だったインホテップが有力な候補であるという.
 パピルスの内容は,5以上の素数pに対する,2/pを単位分数の和に分ける方法と,さまざまな算術や図形の問題が書かれている.ちなみに円周率πの値は256/81=3.1605..とされている.   トップ

リンドナー(Charles Curt Lindner)
 アメリカ,アラバマ州,オーバン大学離散及び統計科学科教授.エモリー大学で,T.エヴァンスの下で学位(1969).デザイン理論(有限群論と組合せ論の複合分野です). [天25]トップ
  
  
  
  
  

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