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 人名索引 なーの


人名索引総目次
ナゲルナポレオン
ニーウェンティイトニーヴンニコマコス,ゲラサのニコメデス
ニモニュートンH.A.ニュートン
ニューボーンニリー
ネイピアE.ネーターネルセット
C.ノイマンフォン・ノイマンノタリ



 
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ナゲル(Trygve Nagell, 1895.7.13-1988.)
 ノルウェー,オスロに生まれ,スウェーデンのウプサラに死す.オスロ大学卒業後(1920),オスロ大学の教員となり,助教授(1930-31).スウェーデンのウプサラ大学教授(1931-1962).
 整数論,抽象代数.特に,不定方程式,代数的数,環論に業績.
文献
  1. 『数論入門』(Introduction to Number Theory, 第2版,Chelsea, New York, 1964)
 [珠訳序, 文] トップ

ナポレオン(Napoleon I, Bonaparte, 1769.8.15-1821.5.5.)
 コルシカ島に生まれ,セント・ヘレナ島に死す.
 1800年第1コンスル,1804年フランス皇帝.ライプニッツルイ14世に提案したフランスのエジブト征服を実行. [解人], [パ11, 人]  トップ
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ニーウェンティイト、ベルナルト(Bernard Nieuwentijt, 1654-1718).
 オランダの医者・幾何学者。微積分法に対する批判者. [解II.1] トップ

ニーヴン(Ivan Morton Niven, 1915.10.25-.)
 カナダ,バンクーバーの生まれ.
 オレゴン州立大学教授.加法的整数論(ウェアリングの問題など).ニーヴン数(各桁の数の和で割り切れる数).『アメリカ数学月報』の編集.  H.S.ツッカーマンとの共著『数論入門,第3版』(An Introduction to the Theory of Numbers, 1972:1991年版はH.モンゴメリとも共著)がある. [名序, 2, 文], [珠説3.10], [天6] トップ

ニコマコス,ゲラサの(Nicomachus of Gerasa, 60年頃-120年頃).
 ローマ帝国,シリア属州,ゲラサ(パレスティナ)の生まれ.
 その『算術入門』は初めて算術を幾何とは独立の教科として著したもの. 以降1000年以上にも亘って,算術の標準的な教科書となる。ギリシャ数字でなく,アラビア数字を使っている.  [名2], [珠説3.9] トップ

ニコメデス(Nicomedes, 紀元前300年頃-240年頃).
 ギリシャで生まれる。
 角の三等分問題と倍積問題を解くために、コンコイドを発見。ヒッピアスの発見した円積曲線(名前はライプニッツが付けた)で円積問題を解く。  [解II.1.1] トップ  

ニモ(Alexander Nimmo, 1783--1832.1.20).
 スコットランド,ファイフシャーで生まれ,アイルランド,ダブリンで死す.
 セント・アンドリュース大学に入学,エジンバラ大学卒業.土木技師として,橋,道路,鉄道建設に従事.さまざまな雑誌に科学記事を執筆.W.ハミルトンの友人.    [列] トップ

ニュートン、アイザック(Isaac Newton, 1642.12.25-1727.3.20(ユリウス暦)).
 イギリス、リンカーンシャー、ウールスソープに生まれ、ロンドンに死す。
 ガリレイの死んだ年に生まれる。生まれる前に父が死に、母は再婚し、祖母に育てられる。グランサムのグラマースクールでの評価は「怠け者で、注意力散漫」というものだった。義父が死に農夫にしようと呼び戻したアイザックに才能を見つけた叔父が、その母校のケンブリッジ・トリニティカレッジに入学させる(1661.6)。2年まではアリストテレス哲学に拘束されたが、3年次からは自由ができ、デカルト、ガッセンディ、ボイルヴィエートウォリスを読み、ついにバローに出会うことによって才能が開花する。 1665年の夏,ペストの大流行で大学が閉鎖、2年弱故郷で研究にいそしむ(驚異の年)。
 ケンブリッジ大学2代目ルーカス教授(1669-1701)、国会議員(1689-1705)、造幣局監督官(1696)長官(1699)、王立協会会員(1672)会長(1703-死)。数学以外にも『光学』(1704)、反射望遠鏡(1668)。
 「巨人たちの肩に乗っているだけ」という謙虚さとフックライプニッツとの論争で見せる傲慢さと! 人というものは...  [解序, I.1-5, II.1-2, 4, 6, III.2-3, 7], [パ序, 1-13, 15-19, 22, 24-31, 附1-2, ノート], [名2-3], [代12], [ブ50] トップ

H.A.ニュートン(Hubert Anson Newton, 1830.3.15--1896)  アメリカの天文学者で数学者.イェール大学で,M.シャールのもとで修士(1850).すぐに同大学で教鞭.流星に関する研究はあるも,アメリカ数学界の基礎を形成.弟子にE.H.ムーア [列] トップ
 

ニューボーン(Monroe M. Newborn).
 グラフ理論.  [天14] トップ

ニリー(A. Nilli).
 ノガ・アロンの仮名で,解説記事や独創性が低いと思ったときに用いる.名前は娘から借用.娘は現在歴史を学ぶ学生とのこと.『天書の証明』第14章に掲載された写真はアロンが該当する論文を書いた頃の娘の写真だということである.  [天14] トップ
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ネイピア、ジョン(John Napier, 1550-1617.4.4).
 スコットランド、エディンバラ、マーキストン城に生まれ、同地に死す。
 マーキストン男爵。 聖アンドリューズ大学中退後ヨーロッパを遍歴。帰郷後(1571)、軍務につきながら研究。対数、球面三角法。対数を使った計算機、の他発明も多い。 [解I.3, 文] トップ

ネーター,エミー(Amalie Emmy Noether, 1882.3.23-1935.4.14.)
 ドイツ,バヴァリア,エルランゲンに生まれ,アメリカ,ペンシルヴァニア,ブルン・モーBryn Mawrに死す.
 父はエルランゲン大学数学教授マックス・ネーター(19世紀代数幾何の指導者の一人).1903-04年にはゲッティンゲンで,ヒルベルトF.クラインミンコフスキーの講義を聞き,1904年にエルランゲンに戻りゴルダンの下で学位(1907). ヒルベルトの基底定理(1888)に対して,あくまでゴルダンは不変式を構成する立場をとり,ネーターも331個の共変形式をリストするという仕事であった.が,次第にヒルベルトの抽象的なアプローチに変わっていく.
 女性であることとユダヤ人であることから,公的な職につくことがむずかしく,各地を点々とする.1915年にヒルベルトとクラインがゲッティンゲンに招き,ヒルベルトの名の下にネーターが講義をするという形態をとることもあった. 1919年に不変式論からイデアル論に転換し,抽象代数学の根幹を作り上げた.準素イデアルの導入. 1924年ゲッティンゲンにきたファン・デル・ヴェルデンはアムステルダムに戻ってネーターの仕事を中心に『現代代数学』を書き,抽象代数学が広まる.
 1927年からはH.ハッセR.ブラウワーとともに非可換環論を研究.力学系の保存法則に関するネーターの定理.
 1933年にナチの迫害にあい,アメリカに亡命し,ブリン・モー女子大の客員教授となる.
 ワイル
「代数学に対する彼女の意義は論文だけから推し量れない.彼女はひとを鼓舞する大きな力を持っていて,彼女の示唆は弟子や共同研究者の仕事の中で初めて形をとるのである.」
と書いている.  [代6, 9, 11-12, 18, コ] トップ

ネルセット(Syvert P. Norsett, 1944-).
 ノルウェーに生まれる。 ダンディーでジャック・ランベルトのもとで学位。現在、ノルウェー、トロンハイム工科大学教授。 [解II.9, 文] トップ
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ノイマン,カール(Carl Gottfried Neumann, 1832.5.7-1925.3.27).
 ドイツ,ケーニヒスベルク(現在ロシア,カリーニングラード)に生まれ,ドイツ,ライプツィヒに死す.  父はケーニヒスベルク大学物理学教授のフランツ・ノイマンで,母はベッセルの義妹.  ケーニヒスベルク大学で学び,教師のヘッセと親しくなり,1855年に学位取得.ハビリタシオンはハレ大学に提出し,1858年に資格取得.ハレ大学私講師(1858),員外教授(1863),バーゼル大学教授(1863),チュ−ビンゲン大学教授(1865-68),ライプツィヒ大学教授(1868-1911).就任演説に「力学のガリレイニュートン理論の原理について」.
 数理物理学,ポテンシャル論,電気力学,偏微分方程式,リーマン面.1860年代にディリクレの原理と対数ポテンシャル(彼の命名)を研究した際の逐次近似法を使い,1890年にE.ピカールが偏微分方程式の解の存在証明をする. 偏微分方程式の境界値問題の一種であるノイマン問題は彼の名にちなむもの.
 マテマティッシュ・アナレン創刊時の編集委員としての仕事も重要.  [伝] トップ

ノーベル,アルフレッド(Alfred Nobel, 1833.10.21-1896.12.10).
 スウェーデン,ストックホルムに生まれ,イタリア,サンレモに死す.  ダイナマイトの発明で知られる化学者、実業家。ノーベル賞の提唱者。スウェーデンのストックホルム生まれ。なおスウェーデン語ではノーベルのアクセントはベに置き、ノベールとなる。  [伝] トップ   彼は、知人の化学者アスカニオ・ソブレロ (en:Ascanio Sobrero)が発明した爆薬、ニトログリセリンを、初めて実用化することに成功。さらにこれを改良し、安全に使えるようにしたダイナマイトを発明した。 彼はこれを工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化用として作ったが、戦争で人を殺す爆弾として使われているのを知り悲しみ、遺言に、ダイナマイトの発明や油田開発で得た莫大な財産を運用して、科学などに貢献した人に賞金を与えるよう言い残した。それが、ノーベル賞である。 武器商人や死の商人と呼ばれることが多いが、実際に最初に手がけた事業は武器製造であり、また、最後にはじめた事業もまた武器製造であった。 「理想的な平和主義者」であり、「現実的で非情な金融家」という二面性を持つ。戦争反対を唱えながらも、武器製造を行い、その利益により平和貢献の活動をした。 また、双方が過剰な武器をもつことにより、軍事バランスを保つことで、戦争を避けようともしたと言われる。戦争そのものを無くす事は不可能であり、より現実的な方法で、理想を作り上げたのである。彼のもつ二面性は、まさしく「現代のかかえる矛盾」そのものと言えよう。これは「ノーベルは全てを破壊する爆薬があれば、どの国も戦争をしなくなるだろうと考えダイナマイトを発明した」というエピソード(真偽に関わらず)からも汲み取れよう。 [編集] 略歴 生まれたとき、父親のイマニュエル・ノーベルは破産したばかりだったが、家族と別れてロシアで興した事業が成功。1842年には父親の住むサンクト・ペテルブルグに向かい、のちに親の事業を手伝う。ここでの主な仕事はロシア軍を相手にした機雷の製造・設置だった。やがてクリミア戦争が起きると、軍から大量の注文があり、大儲けをするが、1853年、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため、事業はたちまち逼迫。父は1859年に再び破産する。 ノーベル本人は、1855年にニトログリセリンのことを知る。しかし、この爆薬は、狙って爆発させることが難しいという欠点があり、起爆装置を開発。1862年にサンクト・ペテルブルグで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得る。1864年には爆発事故で弟エミール・ノーベルと助手が死亡。ノーベル本人は怪我を負う。この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマニュエルによれば、ニトログリセリン製造ではなく、グリセリン精製中に起きたものだという。 1865年、ニトログリセリンの製造業を開始する。1866年、ダイナマイトを発明する。1867年、ダイナマイトに関する特許を取得する。1871年、ダイナマイト生産を開始する。 1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を出し、ベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかし、ベルタは既にアーサー・フォン・ズットナーという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。またアーサー・フォン・ズットナーは著名な数学者であり、このためノーベルは数学賞を設置しなかったという俗説がある。 同年、当時20歳のゾフィー・ヘスと出会い、交流が始まる。ゾフィーには218通の手紙を残した。しかし、1891年、ゾフィーが他の男の子を宿していることが分かると、2人の関係は急速に冷えた。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせようとして成功したため、すべてが残っており、また、ノーベル財団により公開もされている。 1879年、兄ルードヴィとロベルトがロシアでナフサ精製会社を設立。ノーベル本人もこの会社に援助をした。 1884年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール章を授与される。 1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。ノーベルは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし、1895年、最終的に敗訴が確定する。 1894年、武器製造工場を買い取り、武器製造業に進出する。 1895年、ノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。 1896年12月7日、サンレモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。生涯独身であり、子供はいなかった。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わず、誰もいなかった。

ノタリ(V.Notari) 数学史. [解I.1, 文] トップ


  
  
  
  
  

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