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 人名索引 まーも


人名索引総目次
マウロリクスマクシェインマクドナルドマグニツキー
マグヌスマクラウドマクレーンマクローリン
マシケマチンマッカイ
マニンマリオットマリツェフマリュ
マルコフマルコフ(息子)マルシャンマルサス
マンマンデルブロ
ミチエルスキミッタク・レフラーミトリノヴィッチミール
ミルナーミンコフスキー
E.H.ムーア
メイナルダスメシュコフスキーメチウスメビウス
メルカトールメルセンヌメルテンスメレー
メンゴーリ
モースモーデルモーペルテュイW.D.モリス
S.A.モリスモリーンモーレーH.モンゴメリ
モンチュクラモンジュモンテル




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マウロリクス=フランチェスコ・マウロリーコ(Maurolycus=Francesco Maurolico, 1494.9.16-1575.7.22).
 イタリア,シシリー島,メッシナに生まれ,メッシナに死す.司祭.幾何学,数論,光学,力学,天文学など.
アルキメデスアポロニウスパッポスなどのラテン語訳をする.またパッポスの記述から,当時失われていたアポロニウスの『円錐曲線論』第5巻の復元を試みた.失われた古典の復元という形で幾何学への刺激を与えた人物で,彼の死後デカルトの『幾何学』(1637)の出版まで,幾何学の発展は足踏みをしていたという.また,数学帰納法の萌芽も見られるという.secantの表.  [名17] トップ

マクシェイン(Edward James McShane, 1904-).
 1930年にシカゴ大学で学位取得。1936年以降ヴァージニア大学教授。世界各地を訪問し、京都大学にも半年滞在したことがある。アメリカ数学会とアメリカ数学協議会の会長をしたことがある。 変分法、積分論、制御理論、確率過程。[解III.5, 文] トップ

マクドナルド(William Rae MacDonald)。(1888年にネイピアの英訳).  [解文] トップ

マグニツキー(Leontii Filippovich Magnitskii(Леонтий Филиппович Магницкий),1669.7.19-1739.10.30.)  ロシア,トヴェーリ州,オスタシュコフ総主教区の生まれ,モスクワに死す.
 15歳でモスクワのシモノフ修道院に送られ,1694年までスラブ・ギリシャ・ラテン学院で学ぶ. モスクワの貴家の子弟の教師として働き,1701年ピョートル大帝に数学に関する著書を書く許しを得る. また1701年にピョートル大帝がモスクワに航海術の学校を創設し,翌年同校の教師として採用される. お雇い外国人であるスコットランドの数学者H.ファーカーソン(1675頃--179.12.9)の助手として仕事を始め,後には学務主任となる. 1715年からその死まで校長を勤める.1722年には航海術に関する数表『北緯と南緯の表』を編集
 1703年に書いた『算術』はロシアにおける最初の数学の教科書であり,以後半世紀ロシアの標準の教科書となる. ヴラックの対数表のロシア版の編集(1703).1707年のスウェーデンの侵攻を受け,大帝は彼に要塞の研究を命じ,トヴェーリ市の要塞化に従事. [モ歴] トップ

マグヌス(Wilhelm Magnus, 1907.2.5-1990.10.15). ドイツ,ベルリンの生まれ.
 デーンの問に答える形で,1関係群についての論文で,フランクフルト大学で学位(1931).1932年に1関係群に対する『語の問題』が可解であることを示す.フランクフルト大学,ゲッティンゲン大学に勤める.自由群についての研究.1935年に,有限表示を持つ群でその真の商群と同型な例を示す.第2次大戦中はナチの忌避に会い,工場勤務.
 終戦後は,エルディイの推薦で,H.ベイトマンの遺稿の整理を手伝うためにゲッティンゲンを離れる(1948).その結果がH.ベイトマンとエルディイの『高等超越関数 全3巻』と『積分変換表』である.
 その後クーラント研究所に行き,ニューヨーク工科大学教授(1973)になるまで23年間過ごす.  群論,特殊関数論,電磁気学や波動方程式の応用を含む数理物理学.著書は7冊,楕円関数,敷き詰め(非ユークリッド的敷き詰めとその群,1974), 組み合わせ的群論(1966, A.カラス,D.ソリターと共著), 組み合わせ的群論の歴史(1982,B.チャンドラーと共著),数理物理学など. [代コ] トップ

マクラウド(Robert M. McLeod).
 オハイオ州,ガンビエのケニョン・カレッジ(Kenyon Colledge)の名誉教授. ニューメキシコ州立大学に有給休暇で訪れたときに『解析教程』の文献にあるリーマン積分の本を準備した。 [解III.5, 文] トップ

マクレーン、ソンダース(Saunders MacLane, 1909.8.4-).
 アメリカ,コネチカット州ノルウィッチに生まれる。 エール大学卒業(1930),シカゴ大学修士(1931),ゲッチンゲン大学博士(1934)。1947年よりシカゴ大学教授。論理学,代数学,トポロジーにおける業績とともに普及にも尽力。ホモロジー代数の創始者の一人.
 MAA会長(1951-52),AMS会長(1973-74).教科書も多い.  [代コ] トップ  

マクローリン、コリン(Colin Maclaurin, 1698.2-1746.6.14).
 スコットランド、アージルシャー、キルモデンに生まれ、スコットランド、エジンバラに死す。
 神学を学ぶためグラスゴー大学入学したが、シムソンの影響で数学に転向。1713年に「重力について」という論文でMAを取得。 19才でアバディーン大学のマリシャル・カレッジの数学教授(1717-1725)になる。1719年の休暇中ロンドンを訪ね、ニュートンに会い、王立協会会員に。1722年公職としての許可なく、ポルワース卿の長男の家庭教師として、フランスで過ごし、「物体の衝突について」という論文でフランス科学アカデミーの賞を得る。1924年秋生徒が死に、アバディーンに戻ったが、受入れられず、エディンバラ大学ヘ。同教授(1725-1745)。
 1745年にジャコバイトの反乱(亡命したジェームズ2世の支持者)がエジンバラを襲い、街の防衛に中心的な役割を果たす。街が陥落した後、ヨークに逃亡し、健康を害し、翌年水腫で死んだ。
 高次の曲線の研究が著しい。潮汐の理論によって、1740年にオイラーダニエル・ベルヌーイと共にフランス科学アカデミーの賞を受ける。 1742年の『流率論』は、バークリーの攻撃に対する反論として出版され、ニュートンの流率論を始めて系統的に述べたもの。ニュートン理論の最初の体系的叙述ということの重要性は他のどの業績よりも著しいものがある。しかし、厳密さを強調するのに幾何的手法を用い、大陸で展開していく微積分の記号・手法を用いなかったため、イギリスの数学の発展に悪い影響を与えてしまった。 [解I.1, II.1-2, 6, 10, III.8, 文] トップ  

マシケ(Heinrich Maschke, 1853.10.24-1908.3.1).
 ドイツ,ブレスラウ(現在ポーランド領Wroclaw)に生まれ,アメリカ,イリノイ州,シカゴに死す
 1880年ゲッティンゲンで学位取得.F.クラインの弟子.ベルリンのギムナジウムで6年間教えた後,ゲッティンゲンに帰り,1891年にアメリカに渡り,1892年にE.H.ムーアらとシカゴ大学数学科を作る.
 群論,変換群論.クラインの形式問題,線形変換のなす有限群の完全可約性など. [ワ] トップ

マチン、ジョン(John Machin, 1680-1751.6.9).
 ニュートンの友人。ロンドン大学天文学教授.円周率の計算で有名だが、驚くほど個人データが見当たらない。マチンの公式を提案し,πを100桁計算している(1706年発表). [解I.4-6] トップ

マッカイ(Brendan McKay).
 オーストラリア国立大学計算機科学科教授.3年もコンピュータを働かせて組合わせ論のある定理を証明したことで有名.  [名19] トップ

マニン(Yurii Ivanovich Manin, 1937.2.16-).
 ソ連,シンフェローポリの生まれ.モスクワ大学卒(1958).モスクワ大学教授(1967).
 代数幾何学,代数群論,代数的整数論.ガウス・マニン接続.有限体上の代数関数体に関するモーデル予想の証明.   [代序, コ] トップ

マリオット(Edme Marriot, 1620頃-1684.5.12.)
 フランス,ディジョンに生まれ,パリに死す.
 1676年気体を研究しボイルの法則を再発見.フランスではマリオットの法則と呼ぶ.盲点の発見や水力学の研究も.   [パ1, 年表] トップ

マリツェフ(Anatolii Ivanovich Mal'tsev, 1909.11.27-1967.7.7).
 ロシア,ミシェロンスキー(現在モスクワ州シャツゥル地区)に生まれ,ソ連,ノヴォシビルスクに死す.
 モスクワ大学卒(1931),物理・数学博士(1941).1930年からモスクワの中学校で教え始め,1932年にはイヴァノフ教育大学の助手になる.毎週モスクワに鉄道で,師のコルモゴロフのもとに通う.最初の出版物は数理論理学のモデル理論で,そのアイデアは後にロビンソンの超準解析で復活する.博士論文の準備の間もモスクワに通い,コルモゴロフから代数の問題を示される.1937年に環の体への埋め込み可能性についての論文を書く.元は,ファン・デル・ヴェルデンの「体に埋めこむことのできない,零因子を持たない環があるか」という問題だった.さらに,半群が群に埋めこまれるための条件を決定.1937年に「有限ランクのねじれのないアーベル群」で学位.さらに1939-41年に,スチェクロフ研究所で博士論文のための研究.1941年博士論文「同型な表示を持つ無限代数と無限群の構造」.
 1944年にイヴァノフ教育大学の教授になる.線形群の研究,特に可解群の研究.のち,リー群や位相代数で論理学と関連あるものの研究.1944年にはリー群の半単純部分群について,1957年には「自由位相代数」を書く.代数とアルゴリズムの理論の統合.
 1960年にノヴォシビルスク数学研究所教授になり,ノヴォシビルスク国立大学の代数とアルゴリズムの学科長になる.シベリア数学会を作った.また世界的に有名な雑誌 Algebra and Logicを作り,編集者になった.  1948年には,教科書『線形代数学入門』を書くが,1962年には英語に,また前年には日本語(『線形代数学1,2』(柴岡泰光訳,数学選書,東京図書,1960,61)に訳され,世界中に大きな影響を与えた.
 1967年,ノヴォシビルスク・トポロジー・コンファレンスの最中に,突然死去する.死の直前にコンファレンスで行った講義は,1955年にリー環の拡張として定義したマリツェフ代数に関するもので,それ以来の研究の進展を述べたものだった.  [代 コ] トップ

マリュ(Etienne Louis Malus, 1775.6.23--1812.2.23.).
 フランス,パリの生まれ.エコール・ポリテクニク卒(1790). G.モンジュの弟子.工兵隊に勤務,母校で教職(1808). 微分幾何,光学(偏光現象の発見) [伝] トップ

マルコフ(Andrei Andreevich Markov, 1856.6.14-1922.7.20).
 ロシア、リャザニに生まれ、ペトログラードに死す。チェビシェフの弟子。ペテルブルグ大学卒業(1878)、教授(1886-1905)退職後功労教授に。ペテルブルグ科学アカデミー会員(1890)。大数の法則、中心極限定理などを従属試行にも拡張。マルコフ過程。マルコフ・チェイン。 [解II.6], [パ:ノート, 年表], [代コ] トップ

マルコフ(息子)(Andrei Andreevich Markov, 1903.9.22-1979.10.11).
 同姓同名の確率論で有名なの息子.ロシア,サンクト・ペテルブルグの生まれ.レニングラード大学卒業(1924)後,教授(1936).トポロジー,数理論理学,アルゴリズム論.  [ト附, 文], [代コ] トップ

マルサス(Thomas Robert Malthus, 1766.2.17--1834.12.13).
 イギリス,ドーキング(ロンドンの南)に生まれ,サマセット州,バースに死す. イギリス経済学における〈古典派〉の代表的経済学者、人口学者。ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジで数学を学ぶ.
  『人口論(An Essay on the Principle of Population as it affects the Future Improvement of Society)』(1798, 第2版は1803年)は有名で,大きな影響を与えた.他に『経済学原理(Principles of Political Economy)』(1820). 過剰貯蓄の概念を提唱.   [モ微] トップ

マルシャン(Emile Marchand).  チューリヒ工科大学で,A.フルヴィッツの下で,実変数の代数方程式に関して学位取得(1913).チューリヒ工科大学教授.(1927年に積分論に関する業績あり)   [解III.9] トップ

マン(Henry Berthold Mann, 1905.10.27-2000.2.1.)
 オーストリア,ウィーンに生まれ,アメリカ,アリゾナ州,ツーストンに死す.
 1932年,ウィーン大学から代数的整数論に関して学位取得(指導者はフィリップ・フルトヴェングラー).その後ウィーンで教職にあったが,1938年アメリカに移住.
 最初ニューヨークで数学の家庭教師をして生計を立てる.その後数理統計学に関心を持ち,実験計画法に関する著書を書く(1949).戦争中は軍関係などで教え,戦後1946年にオハイオ州立大学に戻り,助教授(1946-1948),正教授(1948-1964).オハイオ州立大学退職後も,ウィスコンシン大学数学研究センター(1964-1971),アリゾナ大学(1971-1975)でも教授.オハイオ州立大学数学科名誉教授.代数学,整数論,数理統計学. [珠序, 訳序, 2.3, 8] トップ

マンテル(W. Mantel) グラフ理論.  [天16] トップ

マンデルブロ(Beno\^{\i}t B. Mandelbroit, 1924.11.20-.)
 ポーランド,ワルシャワの生まれ.アダマールの弟子.ニューヨークで働く.幾何と応用数学.フラクタル幾何で有名. 主著に『フラクタル幾何学』(広中平祐監訳)日経サイエンス(1985). [黄2] トップ
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ミチエルスキ(Jan Mycielski, 1932-).
 アメリカ,ロス・アラモス教授.公理的集合論,グラフ理論.決定性公理(Axiom of determinacy)とZFを仮定すると,実数に関する可算選択公理が成り立ち,すべての実数の集合がルベーグ可測でベール性を満たす(ので,選択公理が成り立たない)ことを示した.  [天32] トップ

ミッタク・レフラー(Gosta Magnus Mittag-Leffler, 1846.3.16- 1927.7.7).
 スウェーデン、ストックホルムに生まれ、ストックホルムに死す。ウプサラ大学卒業(1872)。ベルリンでワイエルシュトラスの講義を受ける(1875)。ヘルシンキ大学教授(1877-1881)、ストックホルム大学教授(1881-)になって、 ソーニャ・コヴァレフスカヤ(1850.1.15-1891.2.10)を招く。
 有理形関数論、関数の一般論。カントールの集合論を用いた最初の人の一人。数学雑誌「アクタ・マテマティカActa Mathematica」の創刊(1882)、45年間主編集者を勤める。
 名前はノルウェー語ではイェスタという音に近いという.     [解III.1, 9],[代] トップ

ミトリノヴィッチ(Dragoslav S. Mitrinovi\'{c}).  ユーゴスラヴィア,電気大学教授.  [天16] トップ

ミール(George Miel).
 パリに生まれる。
 ワイオミング大学で学位(1976)。アポロ宇宙計画に従事。ラス・ヴェガスのネヴァダ大学教授。[解I.4] トップ

ミルナー(John Willard Milnor, 1931.2.20- .)
 アメリカ,ニュージャージー,オレンジの生まれ.
 プリンストン大学卒(1951).フォックスの弟子.絡み目に関する研究で学位(1954).プリンストン大学教授(1960),現在ニューヨーク大学ストーニー・ブルック校教授.7次元の異種球面の発見などでフィールズ賞(1962).代数幾何で考案されたトッド多項式を用いて7次元の球面上に28もの異なる微分構造の存在を示す.
 微分トポロジー,K理論,代数トポロジー,特異点理論.位相群の分類空間の構成.スティーンロッド代数,ホップ代数,特性類とその数理物理との関係の研究.
 明快な微分トポロジーの教科書を多く書き,指導的な役割を果たす.
 日本語の本には『モース理論』吉岡書店,『微分トポロジー講義』シュプリンガーフェアラーク東京がある.  [名序, 5, 21], [ト序, 6], [代コ] トップ

ミンコフスキー(Hermann Minkowski, 1864.6.22-1909.1.12.)
 ロシア帝国,アレオクタス(現在リトアニア,カウナス)に生まれ,ドイツ,ゲッティンゲンに死す.
 1872年家族とともにドイツ,ケーニヒスベルクに移住.ケーニヒスベルク大学に入学後,ベルリン大学でも学び,1885年ケーニヒスベルク大学で学位を受ける.ボン大学(1885-1894),ケーニヒスベルク大学(1894-1896),チューリヒ連邦工科大学(1896-1902,このときの弟子にアインシュタインがいる),ゲッティンゲン大学(1902-死)で教鞭.
 整数論,とくに整係数の2次形式論.これの発展としての「数の幾何学」Geometrie der Zahlen(1896),「ディオファントス近似」Diophantische Approximationen (1907).この発展として,一般次元の空間の幾何的性質を考察し(凸体の理論),やがてH.A.ローレンツやアインシュタインの理論を非ユークリッド空間の中で時空を一体として考えることが自然であることに気づき,4次元の時空連続体の概念を得る(『空間と時間』Raum und Zeit (1907) ). 電気力学の4次元的に取り扱う(『運動する物体の電磁過程論の基礎』Zwei Abhandlungen \"uber die Grundgleichungen der Elektrodynamik (1909)).
 ミンコフスキー空間,ミンコフスキー計量.   [代7, 15], [天13] トップ
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E.H.ムーア(Eliakim Hastings Moore, 1862.1.26-1932.12.30).
 アメリカ,オハイオ,マリエッタに生まれ,イリノイ,シカゴに死す.
 父のデイヴィド・ヘイスティングスはメソジスト派の聖職者で,息子に高い教育を施す.ウッドワード高校(1876-1879)で,イェール大学入学準備中のある夏休みに,シンシナチ天文台の助手として働き,その台長の影響で,大学では天文学と数学を学ぶようになる.
 イェール大学(1879-1883),博士号をH.A.ニュートンの指導下で1885年に取得後,ドイツに留学,ゲッティンゲン(主にドイツ語)とベルリンではクロネッカーワイエルシュトラスの講義に出る(1885-86).そこで学んだ数学教育のシステムをアメリカに持ち込むことで,アメリカの数学の発展に大きな寄与をする.アメリカ国内で数学者を生産できるようになった.
 ノースウェスタン大学講師(1886-87),イェール大学チュ−ター(1887-89),ノースウェスタン大学助教授(1889-92)の後,シカゴ大学創立時(1892)に学長の.W.Rハーパーに抜擢され,数学教室の主任代理になる.実は助教授時代にハーパーに,ニューヨークのショトーカの職に招かれたが,そこでは低レベルの教育しかできないことと,自身が研究に集中したということでムーアはこの申し出を断っている.
 シカゴ大学の創立に際し,たまたまアメリカにいたF.クラインの2人の弟子ボルツァマシケを採用し,3人で新しい数学研究と数学者養成のシステムを作り上げた. 30人の博士を出したが,有名な人にL.E.ディクソン,ジョージ・バーコフ,O.ヴェブレン,A.ペル・ホィーラーなどがいる.ヴェブレンの弟子だったR.L.ムーアにも強い影響を与え,彼はテキサス大学で多くの研究者を育てた.
 彼自身の研究は3つの時期に分かれる.1892から1900までは代数と群論.有限体がガロア体であることを証明(1893).有限単純群の無限系列の研究.
 1900年頃は幾何学の基礎の問題に関心.D.ヒルベルトの公理の独立性を吟味し,1902年の「幾何学の射影的公理についてOn the projective axioms of geometry」で,その冗長性を示す.ヒルベルトの点,直線,平面という無定義述語を使う流儀ではなく,未定義な量としてだけの意味で点を使って展開.
 1906年からは解析の基礎に関心が移り,異常積分の理論を研究し,ボレルルベーグの積分論の前駆となる.半順序集合の収束の概念(ムーア・スミスの収束)  他にも代数幾何,数論,積分方程式など.
 1893年にアメリカで最初のICMの組織者となり,その紀要の出版のための費用を求め,ニューヨーク数学会に接近,会はその受諾とともに,アメリカ数学会に発展的解消.副会長(1898-1890),会長(1901-1902).アメリカ数学会のTransaction誌の編集委員(1899-1907).      [伝] トップ
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メイナルダス(Guntner Meinardus, 1926-).
 整数論。有限次代数体の整数のそこの整数への分割問題。[解III.9, 文] トップ

メシュコフスキー(Herbert Meshchkowski, 1909-.).
 元ベルリン自由大学教授.ヒルベルト空間論,集合論,数理論理学,数学思想,数学史. [天7] トップ

メチウス、アドリアヌス(Adrianus Metius, 1571.12.3-1635).
 オランダ、アルクマールに生まれ、フリジア、フラネカー(現在オランダ領)に死す。オランダの地図制作者・軍事技術者でアルクマール市長を務めたこともあるアドリアン・アントーニッツ(Adriaen Anthonisz=Adriaan Metsue, 1543-1620.11.20)の第2子として生まれる。結婚は2度したが、子供はない。
 1589年フラネカー大学に入学、1594年からライデン大学で学ぶ。ルドルフ・スネリウス(スネリウスの父)とファン・ケーレンに数学を学ぶ。ティコ・ブラーエの元で働いたこともある。1595年オランダに帰り、軍事技術に関し父の助手。1598年以降その死まで、フラネカー大学教授。国際的な知名度があり、1629年にはデカルトが聴講していたという記録もある。
 π の近似値として、 3+15/106 <π< 3+ 17/120 という評価の小数部分の分母・分子それぞれの平均をとって 3+16/113=355/113 という値を得た(5世紀中国の祖冲之がこの値を得ている)。この値はアドリアンの数と呼ばれている。父が彼の結果をそのパンフレット(1584)に書いたので、誤ってこれを父の業績としているものもある。 [解I.4, 6] トップ

メビウス(August Ferdinand Mobius, 1790.11.17-1868.9.26)
 サクソニのシュールフォルテ(現在ドイツ領)に生まれ,ドイツ,ライプツィッヒに死す.母はマルティン・ルターの子孫.
 ある時期ガウスの指導で天文学を勉強し,1816年からプライセンブルグ天文台で自発的に観測を指導し,1818年に台長になる.ライプツィッヒ大学教授.トポロジー,高次元幾何,整数論.メビウスの帯,メビウス関数.  [パ附1, 年表], [名序, 11-18, 22-23] トップ

メルカトール(Nicolaus Mercator=Kaufmann, 1619(20?)-1687).
 デンマーク、ホルシュタイン、エィチン(現在ドイツ領)に生まれ、フランス、パリに死す。
 ロストク大学(1632-1641)で学位取得後、ライデンに少し居た後、ロストク大学教授(1642-1648)、コペンハーゲン大学教授(1648-1654)。この頃数学の本を多数出版。ペストで大学が閉鎖されたため大学を止める。
イギリスに移住し(1660)、個人教授で生計。航海用振り子時計の製作で、王立協会会員(1666)。『対数術』(1668.9)。気圧の測定。1682年ヴェルサイユ宮殿の噴水の設計のためフランスに移住。 地図製作で有名な人とは別人。[解I.3-4, II.6, III.5, 文] トップ

メルセンヌ(Marin Mersenne, 1588.9.8-1648.9.1).
 フランス、メイン、ワーズに生まれ、パリに死す。
 聖職者・科学思想家・科学の組織者。デカルトの弟子、ミニミット(ミニム)派の修道士。メルセンヌ・アカデミーを作り、数学・自然科学の交流・連絡役。ガリレイの思想をフランスに紹介。メルセンヌ素数。[解II.1, 7, IV.4, 文], [名1], [珠説1.7.4, 2.2.6] トップ

メルテンス(Franz Carl Josef Mertens, 1840.3.20-1927.3.5).
 プロシャ、ポーセン、シュローダ(現在ポーランド領)に生まれ、オーストリア、ウィーンに死す。
 ベルリン大学でクロネッカークンマーに学ぶ。クラカウ大学、グラーツ大学、ウィーン大学(1894-)。解析的整数論、代数学、ディリクレの定理の初等的証明。素数分布に関するメルテンスの仮説(1897)。[III.2] トップ

メレー(Hughes Charles Robert Meray, 183511.12-1911.2.2).
 フランス、シャロン・シュル・ソーヌに生まれ、ディジョンに死す。
 エコールノルマル卒業後、サン・クエンティンのリセで教え(1857-1859)、後7年間生地に隠遁。リヨン大学(1866)、ディジョン大学教授(1867-)。無理数の算術的理論を始めて出版する(1869)。ワイエルシュトラスにもデデキントにも影響されず、ラグランジュの考察を厳密化する形でなされた。[解III.0-1, 文] トップ

メンゴーリ、ピエトロ(Pietro Mengoli, 1626-1686).
 イタリア、ボローニャに生まれ、ボローニャに死す。
 ボローニャ大学でカヴァリエーリに数学を学び、1650年には哲学の学位を、1653年には法律の学位を得る。 カヴァリエーリの死後、ボローニャ大学教授、算術(1648-1649)、力学(1649-1668)、数学(1668-1686)の教授。更に、1660年以降、ボロ−ニャの教区司祭。
 調和級数が収束せず、符号を交互に変えれば log 2 に収束し、三角数の逆数の和が収束することなどを示すが、これらはそれぞれ後の人の業績として知られている。 また、無限級数に関する本(1650)、無限に関する本(1659)、π/2 の無限積展開を含む円についての本(1672)を出版。 また、天文学、大気の屈折、音楽理論(1670)についても本を出版。  トップ
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モース(Harold Calvin Marston Morse, 1892.3.24-1977. )
 アメリカ,メイン,ウォーターヴィルに生まれ,プリンストンに死す.
ハーバード大学で学位(1917),G.バーコフの弟子. 第一次世界大戦の軍役の後,コーネル,ブラウン,ハーバード大学を経て,プリンストン高等研究所(1935-62). 数理物理の諸問題への応用を視野に,大域的変分法を開拓した(モース理論).ヒルベルト学派の結果の上に,微分方程式の大域的でトポロジー的な研究を構築した. [ト2, 6] トップ

モツキン(Theodore Samuel Motzkin, 1908.3.26-1970.12.15)
 ドイツ,ベルリンに生れ,アメリカ,カリフォルニア州,ロスアンジェルスに死す.
 父のレオはロシアからベルリンに移住し,30歳を過ぎてからクロネッカーの弟子となって数学を学ぶが,博士論文に取り掛かってから,シオニスト運動に進み,数学を止める.
 テオドールは幼時から数学の才能を認められ,13歳から大学教育を受ける.ゲッティンゲン,パリ,ベルリン大学で学び,ベルリン大学の卒業論文をI.シューアの下で,代数構造について書く.博士論文を書くためにバーゼル大学に行き,オストロフスキーとともに研究,線形プログラミングに関する論文を書く.
 イエルサレムのヘブライ大学(1935-)に,第2次大戦中留まる.1948年にアメリカに移民し,代数学,特にユークリッド環でない主イデアル環の発見など.カリフォルニア工科大学数値解析の教授(1950). ウォルシュ(J. L. Walsh)と共同研究.代数学,チェビシェフ多項式,ラムゼイ理論. [天8, 29] トップ

モーデル(Louis Joel Mordell, 1888.1.28-1972.3.12.)  アメリカ,ペンシルヴァニア,フィラデルフィアに生まれ,イギリス,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
 ケンブリッジ大学出身。G.H.ハーディの後任としてケンブリッジ大学教授(1945). ダヴェンポートとともに数の幾何を創始した。モーデル予想(1922, Q上定義された種数≧2の代数曲線上の有理点は有限個.)。モーデルの問題。  [名3] トップ

モーペルテュイ(Pierre Louis Moreau de Maupertuis, 1698.9.28(7.17?) - 1759.7.27.)
 フランス,サン・マローに生まれ,スイス,バーゼルに死す.
 宗教的教育を受け,陸軍に勤務しながら科学研究をする.パリ科学アカデミー会員(1731).
 ニュートンの重力理論をフランスに普及するのに貢献.ニュートンの予言に従い,地球が極で扁平な球体であることを証明するため,子午線測定のためのラップランド遠征隊を指揮(1736-37).1度の長さを測る.カッシーニの誤りを正した.
 この遠征で名声を博したモーペルテュイは,フリードリヒ大王にベルリンに招かれる。プロシャ軍とともに戦いに出,捕虜になる(1741).ベルリン科学アカデミー会員(1741),会長(1745-53).
 著書も多く,数学,地理学,天文学,宇宙論など.彼の名前を不朽にしたモーペルテュイの原理=最小作用の原理を最初に述べたのは1744年で,1750年の『宇宙論試論』(Essai de cosmologie)で発表した.ここで彼はこの原理を神の存在証明に結びつけようとした.  [パ附1, 年表] トップ

モリス(Walter D. Morris Jr.)
 アメリカ,ジョージ・メイスン大学数学科教授.凸幾何学,グラフ理論,離散数学.   [天21] トップ

モリーン,テオドール(Theodor Molien={\cyrr Fedor Eduardovich Molin}), 1861-1941.)
 リガに生まれる.エストニアのデルプト大学(現在タルトゥ大学)卒(1893).1884-85年にはライプツィヒ大学に留学.F.クラインは当時教授だった.デルプト大学講師(1885). シベリアのトムスクに移り,トムスク工科大学(1900-17),トムスク大学教授(1917).
 多元数論,群論,楕円関数論.C上の有限次元代数の理論を作り,有限群の群環に応用し,表現の完全可約性を示す.   [名3] トップ

モーレー(Frank Morley, 1860.9.9-1937.10.17)
 イギリス,サフォーク,ウッドブリッジに生まれ,アメリカ,メリーランド州,バルチモアに死す.  1879年にケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学.病気で1年遅れ,1884年に卒業したが,フェローになれる見込みもなく,1887年までバース・カレッジで数学教師をする. この間,ようやく健康が回復し,1887年にアメリカ,ペンシルヴァニア州ハーヴァーフォード大学のクエーカー・カレッジの講師となり,翌年教授に昇進.カレッジの同僚とではなく,近くのブリン・モー大学の数学者で,ケンブリッジ出身のスコットやハークネスと仕事をした.ハークネスと共著の『解析関数論』は,当時のアメリカでは珍しい高等数学の教科書だった.
 1900年からジョンズ・ホプキンス大学教授,多くの学生を育てた.幾何と代数に業績を残した.教科書も多いが,有名なのは,三角形に関するモーレーの定理.
 チェスが得意で,現役の世界チャンピオンのラスカーを負かしたこともある.   [直] トップ

H.モンゴメリ(Hugh L. Montgomery, 1944-.)
 ミシガン大学アンナーバー校教授.整数論,素数分布,フーリエ解析,確率論など.  I.ニーヴンH.S.ツッカーマンとの共著『数論入門,第3版』(An Introduction to the Theory of Numbers, 1991)がある  [名序, 2] トップ

H.モンゴメリ(Hugh L. Montgomery, 1944-.)
 ミシガン大学アンナーバー校教授.整数論,素数分布,フーリエ解析,確率論など.

モンチュクラ(Jean Etienne Montucula, 1725.9.5--1799.12.18)
 フランス,リヨンに生まれ,ヴェルサイユに死す.父はリヨンの商人.リヨンのイエズス会の学校に学ぶ.1745年祖母の死を切っ掛けにツールーズに行き,そこの学校を終了した後パリに移る.ディドロダランベール,J.ラランドと親交.書店主のジョンベールとの交際から,数学史の本を出すようになる.新聞ガゼット・ド・パリで働くことで生計.
 『円積問題探究史』Histoire des recherches sur la quadrature du cercle(1754)の名声により,ベルリン・アカデミーの通信会員になる.『数学史』Histoire des mathematiques(1775).1巻は古代から1700年まで,2巻は17世紀の数学を扱う.1761年からはドーフィネ地方の長官,1764-1765年は香料諸島で天文官.王宮の主席事務官(1766-89),1775年に数学の王立監督官.1789年の革命で財産を失う.1799年に数学史の新版を出版.懸案の18世紀を扱う第3,4巻は死後の出版に.ソフィー・ジェルマンがそのアルキメデスの死の記述を読んで感激し数学を学ぶ決心をしたのは有名.   [列8] トップ

モンテル(Paul Antoine Aristide Montel, 1876.4.29-1975.1.22).
 フランス、ニースに生まれ、パリに死す。
 ニースのリセの後、エコールノルマル入学(1894)。 その後幾つかのリセで教えていたが、友人の勧めで発奮して学位取得(1907)。大学に勤めるようになったのは42才のときで、パリ大学。複素関数論、正規族の概念を導入して、リーマンの写像定理とかアダマールの有限次の整関数の特徴づけなどを整理する。多項式の係数と零点の分布の関連を調べる。 [解III.9] トップ


  
  
  
  
  

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