TOSM三重のホーム
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アアボエ(A.Aaboe). 古代・中世の数学史家。[解I.4]トップ
アイグナー(Martin Aigner, 1942.2.28-)
オーストリア,リンツの生まれ.
ウィーン大学でPhD取得(1965).その後の5年間をアメリカで過ごし,G.C.ロータとR.C.ボーズによって組合せ論を知る.
ベルリン自由大学数学科教授(1974-).組合せ論,グラフ理論,離散数学.エルデシュ数は1.著書多数.『組合せ論』(Combinatorial Theory)や,ツィーグラーと共著の『天書の証明』. [天24, 29]トップ
アイゼンシュタイン(Ferdinand Gotthold Max Eisenstein, 1823.4.16-1852.10.11).
ドイツ,ベルリンに生れ,ベルリンに死す.
父の代でユダヤ教徒からプロテスタントに改宗.4人の兄弟は髄膜炎で死に,彼も罹病し,生き残ったが,生涯病弱であった.幼いときから天才を発揮し,
「6歳のとき,肉を切るのはナイフであってフォークでないことは分からなくても,ある数学の定理の証明を理解できた」
と自分で書き記している.
ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムに在籍中からオイラーやラグランジュの本を読み微積分を学び,ベルリン大学でディリクレらの講義を聴く.1842年にガウスの『整数論研究』のフランス語訳を買って読み,整数論に魅惑される.1843年ダブリンでハミルトンに会い,アーベルの5次方程式の代数的非可解性の論文を貰う.
ドイツに戻り,1843年秋ベルリン大学に入学.1744年1月ハミルトンの論文をベルリン・アカデミーにて移出し,同時に自分も会員になり,自分の2変数の3次形式の論文も提出する.
2次形式,3次形式,3次剰余の相互法則,素数の平方和などを研究.ガウスの本の内容を深化させたもので,クンマーと競合.論文の査読を担当したクレレの知遇を受け,その紹介で1844年3月アレキサンダー・フォン・フンボルトに会う.1844年6月ゲッティンゲンに行きガウスに会い,絶賛される.
楕円関数の研究で,ヤコビと不和に.1847年にベルリン大学で,教える資格を得,講義した中にリーマンがいた.
王の軍に彼の住んでいた建物から銃を撃ったものがあり,彼は逮捕され,翌日釈放されたが,元々病弱の彼はその待遇のために急速に弱った.
ガウスの要請で1851年ゲッティンゲン・アカデミー会員に,1852年にはディリクレの要請でベルリン・アカデミー会員に選出される.彼の健康回復のためシシリー島での休暇のための資金をフンボルトが獲得したのは既に遅く,
肺結核のため29歳で亡くなった.
リーマンとの会話からリーマンがその有名な予想を思いついたという感想がヴェイユにある. [伝]トップ
アイゼンハルト(Kuther Pfahler Eisenhart, 1876.1.13-1965.10.28)
アメリカ,ペンシルヴァニア,ヨークに生れ,ニュージャージー,プリンストンに死す.
ダルブーの影響を受け,1900年に論文「曲面の無限小変形」で博士号取得(ジョンズ・ホプキンス大学).
プリンストン大学講師(1900),教授(1909-45),学部長(1925-33),大学院長(1933).
微分幾何,リーマン幾何の一般化,連続変換群などをテーマの著書も.アメリカ数学会副会長(1914),会長(1931-32),Transactions of the American Mathematical Societyの編集(1917-23)
[ワ8]トップ
アイトケン(Alexander Craig Aitken, 1895.4.1-1967.11.3)
ニュージーランド,ヂュネディンに生れ,スコットランド,エディンバラに死す.
ニュージーランド,オタゴ大学在学中に第1次世界大戦に従軍,エジプト,フランスと転戦.ソンムの戦いで負傷,母国に送還され,大学に戻る.卒業後高校で教師.オタゴ大学の新しい教授の薦めで,エディンバラ大学へ留学(1923).ホイッタッカーの下で学位(1925).その後エディンバラ大学に勤め,1935年には統計学の講師(Reader),1945年にはホイッタッカーの後任として教授に.
統計学,数値解析,代数学(対称関数,行列式,不変式論など).
アイトケン非線形公式,アイトケン補間,アイトケン近似.
[ワ7]トップ
アイレンベルグ(Samuel Eilenberg, 1913.9.30-1998.1.30).
ポーランド,ワルシャワに生まれ,アメリカ,ニュー・ヨークに死す.
ワルシャワ大学修士(1934),ボルスクの指導で博士(1936).ミシガン大学講師(1940),準教授.インディアナ大学教授(1946).コロンビア大学教授.
代数トポロジー,(コ)ホモロジー論,ホモロジー代数,圏と関手の理論の創始者の一人.スティーンロッドとの共著『代数トポロジーの基礎』(1952),H.カルタンとの共著『ホモロジー代数』(1956),マクレーンとの『自然同値の一般理論』(1945)はそれぞれ分野を切り開いたもの.
アイレンベルグ・マクレーン空間K(π,n).また計算機理論にも興味を持ち『オートマトン,言語』(1974,1976).
[代コ] トップ
アインシュタイン(Albert Einstein, 1879.3.14-1955.4.18).
ドイツ,バーデン・ヴュルテンベルク,ウルムに生まれ,アメリカ,ニュー・ジャージー,プリンストンに死す.
あまりに有名で,子供のころばかりでなく,大学卒業時までも才能を認知されず,高校教師,ベルンの連邦特許局に勤務しながら,物理を勉強して(チューリヒ連邦工科大学でミンコフスキーに学ぶ),1905年に突然3大論文を発表したこと,ユダヤ人のため,ナチの迫害に遭い,世界中を巡る講演旅行の際アメリカに亡命し,アメリカが原子爆弾を開発するきっかけを作り,後にそれを悔やみ,科学者の平和運動の旗頭になり,イスラエルの大統領就任要請を断り,晩年は比較的静かにプリンストンで暮らしたということなど,山ほど出ているアインシュタインの伝記に詳しく書いてある.
1. ブラウン運動の理論.微小粒子の不規則な運動を,液体分子の花粉などの比較的大きな粒子への衝突によるものと考える.これにより,原子の存在が確認され,原子の大きさの測定への道を開く.
2. 光電効果.光の波束が光量子として振る舞う.1921年,この業績でノーベル賞受賞.
3. 特殊相対性理論.光より速く運動するものはない.光に近づけば質量が増す.どんな観測によっても光速が一定であることを解決.ローレンツ変換不変な理論.
4.一般相対性理論.光が曲がると予言.センセーションを巻き起こす.一般座標変換不変な理論.リーマン幾何学そのものと言えるほどにテンソル計算を駆使,以降テンソル計算が普及する.
5. 統一場理論.失敗作なのか,まだ成功の可能性が残っているのか,知らない.
ボーズ・アインシュタイン統計,アインシュタイン方程式.アインシュタインの規約.
「神は賽子を振らない.」
[代17] トップ
アウグスティヌス,聖(Augustinus, St., 354-430)
前名アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus). ヌミディア(現アルジェリア領)タガステの生まれ.初期キリスト教会最大の教父. [天15]トップ
アウスランダー(Louis Auslander, 1928.7.12-.)
アメリカ,ニューヨークで活躍.ホモロジー代数,線形代数,環論,多様体上の力学系.
L.Auslander - B. Kostant理論. [ト文]トップ
アウスランダー,モーリス(Maurice Auslander, 1926.8.3-1994.11.18.)
アメリカ,ニューヨーク,ブルックリンに生まれ,ノルウェー,トロンヘイムに死す.
トップ
浅野啓三(Keizo Asano, 1910-)
大阪市立大学教授.代数学
著書に,『行列と行列式』共立出版(1955),永尾汎と共著の『群論』岩波全書(1965),正田健次郎と共著の『代数学I』現代数学4,岩波書店(1952).
[ワ3]トップ
アシェット(Jean Nicolas Pierre Hachette, 1769.5.6-1834.1.16)
フランス,アルデンヌ,メジエールに生まれ,パリに死す.
メジエールの王立工兵学校でモンジュに学ぶ.16歳でランス大学に入学(1785-1787),1888年にメジエールの王立工兵学校の技官となり,モンジュの画法幾何学の講義を助ける.モンジュがパリに行ききりになって(1784.12)からは,教えることもした.
革命後,技術的なことに関する政府の仕事をする.1794年の公共事業中央学校の設立にメジエールでの経験を生かして参加.1794年11月画法幾何学の助教授となる.一時的にエコール・ノルマルでモンジュの助手として教える.1799年にはエコール・ポリテクニク(公共事業中央学校の後身)の教授となり,同校の雑誌の編集者となる.
1810年からはエコール・ノルマルとパリ大学理学部でも教える.
王政復古によるエコール・ポリテクニクの組織変えで,退職.1823年にはパリ・アカデミーに選出されたが,ルイ18世が承認しなかった.
数学的には画法幾何学に関するもので,モンジュの本を編集し,モンジュの仕事の普及に貢献.モンジュとの共同研究で,2次曲面の分類,母線群に関して,たとえば2次曲面の平行な平面による切り口が相似なことなどを示す.
空間曲線の曲率の問題や,アポロニウスの問題の一般化についても研究.機械学や応用力学なども研究し,蒸気エンジンの歴史に関する著書もある.
[伝]トップ
アストレリン(Andrey V. Astrelin)
モスクワ大学,計算法研究所(Laboratory of Computing Method)研究員.
計算機を使った種々の数学を研究.I.サビトフとの共同研究で多面体の体積に対する標準多項式の計算(1996, 1999)やグレプナー基底の計算など,1990年から2002年までに24編の論文がある.
[モ]トップ
アダマール、ジャック(Jacques Salomon Hadamard, 1865.12.8-1963.10.17).
フランス、ベルサイユに生まれ、パリに死す。
学校教育では数学以外は出来が良く、ギリシャ語とラテン語では優秀だったが、
「7年次までは算数はビリかほとんどビリだった」と1936年に自身が語っている。その後、良い数学の教師が数学と科学に彼の気持ちを向け、エコール・ポリテクニークとエコール・ノルマル・シュペリオールの入学試験までにはそれぞれに1位になった。エコール・ノルマルを選び、J・タヌリとエミール・ピカールのもとで学ぶ。1892年にテイラー級数で定義される関数に関する論文で学位。
ボルドー大学教授(1893)、ソルボンヌの非常勤講師。コレージュ・ド・フランス(1909-1937)、エコール・ポリテクニーク教授を併任。
政治にも巻きこまれる。ドレフィス事件に積極的に参加。第1次大戦で2人の息子を失う。ナチの台頭と共に左傾化し、1940年にフランスが占領された際アメリカに逃げ、ついでロンドンでイギリス空軍の作戦研究に加わり、1945年にパリに戻る。
18世紀に予想された素数定理を、ヴァレ・プーサンと独立に複素解析を使って証明する(1896)。テイラー級数で定義された関数(解析関数)と、その特異点の研究。数理物理学の偏微分方程式、適切な(well-posed)初期値問題と境界値問題の概念の導入。グリーン関数の一般化(1932)。函数解析の基礎づけ。「汎関数」という用語の使用。変分学。
アダマールの誕生100年記念の式典で、ローラン・シュヴァルツは次のように言っている。
「彼は彼の時代にファンタスティックな影響を与え、今あるあらゆる解析学は直接間接を問わず彼によって形作られたものであると、信じています。」
日本語の本には『数学における発見の心理』(伏見康治+尾崎辰之助+大塚益日古訳)みすず書房、
『偏微分方程式-コーシー問題と双曲型線形偏微分方程式』現代数学の系譜14(福原+相澤+山中訳・解説)共立出版がある。
[解I.5], [解III.7], [解文], [ト6] , [珠説2] , [代コ] トップ
J.C.アダムズ(John Couch Adams, 1819.6.5-1892.1.21.)
イギリス,コーンウォール,ラニーストに生まれ,ケンブリッジシャー,ケンブリッジに死す.
天体力学,数理物理学.ケンブリッジ大学聖ジョン・カレッジに学ぶ.ケンブリッジ大学教授.ケンブリッジ天文台長.
1843年10月に天王星の運動の狂いから海王星の存在を予言し,1845年にケンブリッジ天文台長のG.エアリーに報告したが理解されず,海王星を観測で確認する作業は所員にゆだねられ,時間がかかり先を越された.独立に予言したパリのルヴェリエはベルリン天文台に依頼し,1時間で見つけてくれ(1846年9月23日),10月1日には発見の報道がなされる.
常微分方程式の数値解析におけるアダムズの解法.ベルヌーイ数の計算,ルジャンドルの多項式の研究.月の永年加速度,近地点の研究(1853).11月流星群(獅子座流星群)の公転軌道決定(1866).[パ23] トップ
アッペル(Paul Emile Appell, 1855.9.27-1930.10.24. )
フランス,ストラスブールの生まれ.父祖もアルザスのフランスに忠誠を尽くした家系で,後にドレヒュス事件に関与する背景でもある.
アンリ・ポアンカレの,ナンシー以来の友人.エコール・ノルマル・シュペリオールに入学(1873),首席で,しかも学位を得て卒業(1876).
彼が結婚したアメリーは,ベルトランとC.エルミートの姪で,エミール・ピカールの従姉妹.3人の娘の1人はボレルと結婚.1885年にソルボンヌの力学の教授に.科学アカデミー会員に選出(1892).パリ大学理学部長(0903--20),学長(1920--1925).
最初の論文はシャールの仕事を受け継ぎ微分幾何に関するもの(1876).理論力学,楕円関数,代数関数,解析入門などに著書多数あり.1878年に振り子の解における楕円関数の虚周期の重要性に注目し,物理的考察から楕円関数の2重周期性を導く.モンジュの問題を解くことでボルディン賞を共同受賞(1880).アッペル多項式,アッペル関数,アッペル変換,アッペル微分方程式.[伝] トップ
K.I.アッペル(Kenneth Appel I, 1932.10.8-)
アメリカ,ニューヨークの生まれ.微分幾何学(アッペル空間),組合わせ論,グラフ理論.ハーケン,コッホ(John A.Koch)と共に4色問題の解決(1976).4色問題解決時はイリノイ大学教授.[名19] トップ
アティヤ(Michael Francis Atiyah, 1929.4.22-).
イギリス,ロンドンの生まれ.父はレバノン人で母はスコットランド人.学校はカイロのヴィクトリア・カレッジとマンチェスター・グラマー・スクールと半々に.兵役後,ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学し,卒業後もフェローに(1954).1955年はプリンストンにいて,帰国後はケンブリッジで(1961年まで),その後オックスフォードに移り,1963年オックスフォード大学サヴィル幾何学教授職に.1969年プリンストン高等研究所教授になり,3年後に帰国,オックスフォードの王立協会研究教授職に.1990年にケンブリッジ,トリニティ学寮長兼,新設のニュートン研究所長に.1966年フィールズ賞受賞.
トポロジー,複素多様体論,微分方程式など多方面の業績.K理論,アティヤ・ジンガーの指数理論. [解人], [名20], [代コ] トップ
アノソフ(Dmitrii Viktorovich Anosov, 1936.11.30--).
ソ連,モスクワの生まれ.モスクワ大学卒(1958).ハルコフ大学,ゴーリキー大学,モスクワ大学(1968--73),ソ連科学アカデミー・スチェクロフ研究所(1961--)に勤務.現在研究所の微分方程式部門の長.
ポントリャーギンの指導で博士号取得(1966).アカデミー通信会員(1990),正会員(1992.11).
微分方程式,微分幾何学,微分トポロジー,力学系.『負曲率の閉リーマン多様体上の測地流』によってソ連国家賞受賞(1976).
アノソフ微分同相,アノソフ流などは力学系の安定性理論での基本概念になり,ポアンカレ予想の解決に向かうための基礎的な道具になった.. [モ歴] トップ
V.I.アーノルド、ヴラディーミル・イーゴレヴィッチ(Vladimir Igorevich Arnol'd, 1937.12.6-).
ソ連、オデッサの生まれ。
コルモゴロフの弟子。20才前のモスクワ大学の学生がヒルベルトの第13問題を(否定的に)解決したというニュースが世界を駆け巡り、彗星のように若き天才が登場する(1957)。28才でモスクワ大学教授に(1965)。モスクワ数学会副会長(1985).レーニン賞(1965),スウェーデン王立アカデミー・クラフォード賞(1982).
三体問題の安定性(KAM理論)、特異点問題など多彩。訳者がモスクワにいた頃、すでに頭髪が薄くなり掛けていたが、同僚からヂィーマと愛称で呼ばれて親しまれていた。黒板の前で話の合間にふと見せるはにかんだような微笑みに、彼の瑞々しい感性を感じたものだ。
文献
- 『古典力学の数学的方法』(安藤韶一+蟹江幸博+丹羽敏雄訳)岩波書店(1980),原書はロシア語(1974)
- 『カタストロフ理論』(蟹江幸博訳)現代数学社,原書はロシア語
- A.Avez(アヴェ)と共著『古典力学のエルゴード問題』(吉田耕作訳)吉岡書店(1972)、Problemes ergodiques de la mecaniques classique, Gauthier - Villars(1967)
- 『常微分方程式』(足立正久+今西英器訳)現代数学社(1981) ,原書はロシア語
- 『数理科学のパイオニアたち』(蟹江幸博訳)シュプリンガー・フェアラーク東京(1999) Huygens & Barrow, Newton & Hooke,原書はロシア語
[解I.5, IV.2], [パ5, 14, 15], [ト文], [代15, 19, コ] トップ
アピアヌス、ペトルス(Petrus Apianus, 1495.4.16-1552.4.21).
ザクセン、ライプツィッヒに生まれる。
天文学、地理学者。ライプツィッヒ、ウィーンに学び、インゴルシュタット大学教授。
1527年に『計算』(Rechnung)を出版、2項展開の係数としてパスカルの三角形の表を印刷。また2項展開に基づく、2乗根-8乗根の記述もある。
トップ
アペリー(Roger Ap\'ery, 1916-1994)
フランス,カーン大学数学力学部教授.整数論.ζ(3) の無理数性を比較的初等的な方法で示した(1978年)ことで有名だが,この証明が出来たときには60才を超えていた.[天6] トップ
アーベル、ニールス・エンリック(Niels Henrik Abel, 1802.8.5-1829.4.6(16)).
ノルウェー、フィンネイ(スタヴァンゲル近くの島)に生まれ、ノルウェー、フロランドに死す。
貧しさのために若死にしたと言える。13才で、クリスチャニア(今のオスロ)のカテドラルスクールに入学、ホルムボーの指導で数学に興味を持つ。1821年クリスチャニア大学に入学。大学では殆ど独学だったという。
1825-27年政府の奨学金で、ドイツ・フランスに留学。クレレ誌の1号はアーベルの7編の論文からなるもの。クレレの奔走でベルリン大学から招かれることになったが、その知らせは遂に彼の死に間に合わなかった、という日本人好みの悲劇のヒーロー。
5次方程式の代数的不可解性の証明(1824)は有名で、この論文の日本語訳と解説が、守屋美賀雄訳・解説『アーベル・ガロア 群と代数方程式』現代数学の系譜11共立出版(1975)にある。
アーベルの伝記については、C.A.ビエルクネス 『わが数学者アーベル その生涯と発見』(辻雄一訳、現代数学社),O.オーア『アーベルの生涯−数学に燃える青春の彷徨』(辻雄一訳、東京図書),A.ストゥーブハウグ 『アーベルとその時代 夭折の天才数学者の生涯』(願化孝志訳,シュプリンガー東京) がある。
楕円関数論,級数論など。 アーベル群、アーベル方程式、アーベル関数、アーベル多様体など多くのものに名を冠されている。
[解II.6], [解III.0, 2, 4, 6-7],[ト,7,8],[パ序,18,25],[名1,8],[代5,6, 12-22,コ] トップ
アポストル(Tom M.Apostol, 1923-).
カリフォルニア州,パサデナ,カリフォルニア工科大学教授.彼の『数学解析』(Mathematical Analysis), Reading, Mass.:Addison-Wesley(1957)は一時期英語による微積分の教科書の標準であったことがある.また『解析数論入門』(Introduction to Analytic Number Theory), Springer(1976) [天6] トップ
アポロニウス、ペルガの(Apollonius = Apollonios of Perga, 紀元前262(245説あり)-190頃).
ギリシャ植民地イオニアのペルガ(現在はトルコ領)に生まれ、エジプト、アレキサンドリアに死す。『円錐曲線論』。hyperbola双曲線, ellipse楕円, parabola放物線、という言葉を与え、個々にあった円錐曲線の理論を、円錐の断面として統一した。横座標、縦座標の言葉と共に、彼の2次曲線に関する業績は、後のデカルト・フェルマの解析幾何を導いた。アポロニウスの問題(円の接触問題)。
アルキメデスに続き、ギリシャ語の記数法を改良した(大きな数を表わすため)。天文学者としては、惑星運動の体系として、エウドクソスなどの使用した同心球系に対して、周転円運動系と離心運動系を提唱し、プトレマイオスの『アルマゲスト』を通じて天動説理論の標準として長い間採用された。
精緻な円錐曲線論に対して、何の役に立つのかという非難を浴びたアポロニウスは、「定理はそれを証明するだけでも価値がある。数学上の多くの事柄を受け入れるのは数学自体のためであって、そのほかのためではないのと同じである」と反論している。
[解I.1],[名2, 12] トップ
アリストテレス(Aristoteles, 紀元前384-322).
ギリシャ、マケドニアのスタゲイロスに生まれ、ギリシャ、オイベア、カルキスに死す。
前367年からプラトンの死まで20年間、アカデミアで学ぶ。アレキサンダー大王の家庭教師(前343)。アテネでリンセリウムを開く(前335年)。アレキサンダー大王の死後(前323)、アテネに反マケドニア感情が強くなり、カルキスに引退、翌年死す。数学への貢献としては論理学の整備、無限に関する考察など。円周率が無理数であることを指摘.
ルネサンス以降、何かと敵役になっているが、1000年以上学問の到達点であり、彼の業績を踏まえてこそそれを越えることに意味がある。学問全体としてみれば影響力は史上最大か。 [解I.1], [珠訳序], [パ7], [天6] トップ
有馬頼彳童(Yoriyuki Arima, 1714(正徳4).11.25-1783(天明3).11.23).
久留米藩主(1729,享保14年)。関流数学者の山路主住(1704-1772.12.11)に学ぶ。大名の財力で、関流の数学者を後援し、書物を刊行し関流を広める。建部賢弘の導入した連分数の式で π、π2 の近似値を計算。 [解I.6] トップ
アリヤバータ(Aryabhatta, 476-550頃).
東部インド,クスマプールの生まれ.『アリヤバティヤ(Aryabhatiya)』(499)は天文学・数学を扱った詩形式の書物.10のべき乗の呼び名.10進記数法.平方根と立方根の計算法.等差数列の和.円周率の近似値 3.1416 を得る. [名17] トップ
アル・カーシー(Al-Kashii=Ghiyath al'Din Jamshid Mas'ud al'Kashi, 1390-1429.6.22(1436, 1450説あり)).
現イラン、カーシャーンに生まれ、サマルカンド(現ウズベキスタン共和国領)に死す。
ティムールの孫ウルグ・ベグ皇太子に庇護される。サマルカンドの天文台に参加。数学・天文学に貢献。10進小数の創始と自認。『算術への鍵』(1427)は広く読まれた初等数学読本で、任意の累乗根の開き方が述べてある。正800335168角形の辺を計算して出した π の小数17桁の近似値は『円について』にある。[解I.4] トップ
アルカルサーディー(Alkalsadi=Muhammad al-Qalasadi = Abu'l Hasan ibn Ali al Qalasadi, 1412-1486年)。
スペイン、バスタに生まれ、チュニジア、Bejaに死す。
スペインのムーア人の町であるバスタがキリスト教徒に占領されると、アフリカに逃げ、イスラム世界を旅行する。著書『グバル科学の秘密』で、塵や砂を撒いて計算するグバル数字によるインド人の計算法の紹介と発展という形で、平方根の逐次近似、代数的記号の使用などが述べられている。これらは、彼以前に知られていたのだが、独立に発見したものとみなされている。アラビア数学最終期の数学者。[解I.2] トップ
アルガン、ジャン・ロベール(Jean Robert Argand、1768.7.18-1822.8.13)。
スイス、ジュネーヴに生まれ、パリに死す。
アマチュア数学者。1806年にパリで本屋をしながら、複素平面のアイデアを最初に公表(私費出版『幾何学的構成によって虚量を表わす方法についての試論』)。代数学の基本定理の証明、複素数の絶対値の概念の導入(1814)。ガウスもそれ以前に研究していたが、公表したのはアルガンが最初である。埋もれがちな業績が知られるようになった事情は、出版前にアイデアをルジャンドルに話し、ルジャンドルが砲兵学校講師のJ.R.フランセの兄弟に手紙を書いてその方法を述べ、フランセが1813年に『数学雑誌』で方法を述べ、匿名の考案者に名乗るように求め、アルガンが名乗りでて同誌にアルガンの論文が掲載されるという長いいきさつがあった。実際に数学の世界にこのアイデアが認知されるのはやはりガウスの業績を通してである(1830年頃)。
実はノルウェーの測量技師C.ヴェッセルがベクトル理論の展開の一環として複素数を平面ベクトルと考える幾何学的構成『方程式の解析的表現について』(1799)を書いているが、デンマーク語で書かれていたため、100年程知られないままであった。 [解I.5], [名6] トップ
アルキメデス、シラクサの(Archimedes of Syracuse, 紀元前287頃-212).
シシリー島、シラクサに生まれ、シラクサに死す。
父フェイディアスも天文学者で王室と血縁があったらしい。アレキサンドリアに学び、エラトステネス、コノンらエウクレイデスの弟子たちと交流。ラセン式水揚げ機、テコ、滑車、投石機などの発明。日・月・星の運行を示すプラネタリウム模型の設計(この模型はローマ軍の戦利品となったとキケロにある)。浮力の原理を発見したとき、裸で浴場を飛び出したり、ローマ軍と戦う軍師でありながら島に攻め込まれたとき、それを知らず、連行しようとするローマ兵士に地面の上に描いた図を消すなと言って殺されたり、エピソードは豊富。死ぬ直前に描いていた図は何だったのか。
円周率の近似値、それを求めるための取り尽くし法(積分概念の萌芽)、回転体の体積や表面積、3次方程式の幾何学的解、アルキメデスの公理(エウクレイデスの原論の中ではエウドクソスの原理と呼ばれているが後世への影響力からアルキメデスの名で呼ばれるようになった)、アルキメデスの螺線、大きな数(宇宙の砂粒の数)を表わすためのギリシャ数字の記数法と命数法の改良。
友人のヘラクレイデスの書いた伝記は失われ、後世の著述、とくにプルタルコスの『英雄伝』などで散見。彼はとても熱しやすく集中心が強く、たとえば風呂で従者に洗ったり油を塗られたりしているときにも指で自分の体に図形を描いていたとある。
キケロが紀元前75年に発見したアルキメデスの墓には、彼の遺志により、球に外接する直円柱の図と、その体積比が3:2という式が刻まれていたという。
「支点を与えてくれれば世界を動かしてみせる。」
日本人の好きな学者の一人で、現存する著書のほとんどは日本語訳がある。『方法』(佐藤徹訳、東海大学出版会)、『科学の名著9アルキメデス』(朝日出版社,1981)の中に『球と円柱について、第1巻』(佐藤徹訳)、『機械学』(佐藤徹復元)、『世界の名著9ギリシャの科学』(中央公論社,1980)の中に「球と円柱について1,2」「浮体について1」など11論文の抄訳(三田博雄訳)がある。 [解序, I.3-4, 6, II.4], [パ7,10], [名2,17], [天I] トップ
アルツァー(Horst Alzer.) 南アフリカ共和国,ヨハネスブルグ,ウィットウォーターストランド大学数学科. [天16] トップ
アルティン,エミール、
(Emil Artin, 1898.3.3-1962.12.20).
オーストリア,ウィーンに生まれ,ドイツ,ハンブルクに死す.
ライプツィヒ大学卒業(1921).ハンブルク大学(1923-37, 1958-).妻がユダヤ人だったため,ナチの新公職法施行(1937)により,大学を追われ,アメリカに亡命し,ノートルダム大学(1937-38),インディアナ大学(1938-46),プリンストン高等研究所(1946-58)に勤務.現代代数学,代数的整数論,代数トポロジー,ガンマ関数論など.非可換環論,特にアルティン環.
日本語の本としては,『ガロア理論入門』(訳)東京図書(1974)がある. [珠2.3, 2.8], [天5] トップ
アルティン,マイクル、
(Michael Artin, 1934-).
父はエミール・アルティン.1960年,ザリスキの指導の下で.ハーヴァード大学から学位.
マサチューセッツ工科大学教授.
代数幾何学,非可換代数.M.アルティンの代数性定理,アルティン近似定理. [名序] トップ
アルトマン(Benno Artmann).
ゲッティンゲン大学数学研究所名誉教授.ダームシュタット大学数学教授を退職.
日本語の本に『数学の創造者−ユークリッド原論の数学』(大家建正訳,シュプリンガー東京)がある. [天序,1] トップ
アルバート(Abraham Adrian Albert, 1905.11.9-1972.6.6.)
アメリカ,イリノイ,シカゴに生まれ,シカゴに死す.
シカゴ大学教授.アメリカ数学会会長(1965-66)
E.アルティン,E.ネーター,H.ハッセ,H.ワイルに影響を受ける.
現代代数学,特に多元環論,ジョルダン代数の構造,リーマン行列.. [ワ2,3] トップ
アル・フワーリズミ、モハンマド・ベン・ムサ(Mohammed ben Musa Al-Khowarizmi =
Mohammed ibn Musa al-Khwarizmi = Abu Ja'far Muhammad ibn Musa al'Khwarizmi, 780?(790?)-850?).
ペルシャ北部、フワーリズミの生まれ(バクダッド生まれという説あり)、没したところは不明。
数学・天文学・地理学・暦学者。アル・マムーンが、アレクサンドリアの古い図書館に対抗して、バクダードに設立した「知恵の館」の教授団の一人。『アルジャブルの書』の他に、インドの記数法を紹介した『インドの計算法について』も重要(このアラビア語原典は失われている)。数の10進数表記で、 0 を空いている桁に使用するのは彼の功績とも言われる。ほか『インド人の天文表』、『プトレマイオスの弦改訂表抜粋』。 [解I.1] トップ
アレンドルファー(Carl Bennett Allendoerfer, 1911-1974.)
微分幾何学者.ガウス--ボネの定理を,閉じたリーマン多様体へ拡張(1943). [ト6,文] トップ
アレクサンダー(James Waddell Alexander, 1888.9.19--1971.9.23)
アメリカ,ニュージャージー,シーブライトに生れ,プリンストンに死す.
プリンストン大学卒(1910),O.ヴェブレンの弟子.1912年パリとボローニャに留学.1915年,学位論文Functions which map the interior of the unit circle upon simple regionsでPh.D.取得.1915年プリンストン大学instructor,1916年lecturer.1917-20年は第1次世界大戦で従軍.1920年助教授,1926年準教授,1928年教授.プリンストン高等研究所創設(1933)に当たりその教授に.
代数・組み合わせトポロジー,代数幾何.ヴェブレンと共同して,多様体の位相幾何を多面体に拡張.1920年単体複体のホモロジーの位相不変性の証明.ポアンカレのアイデアの厳密化や,代数曲面やクレモナ変換の研究.ジョルダンの曲線定理の拡張を目指して,アレクサンダー双対性,m球面上のアレクサンダーの補題を示す.アレクサンダーの角付き球面horned sphere(1924).結び目のアレクサンダー多項式(1928).アレクサンダー・スパニア・コホモロジー(1935).コルモゴロフと独立にコホモロジー論の発見(1935). [ワ8] トップ
A.D.アレクサンドロフ(Aleksandr Danilovich Aleksandrov, 1912.8.4-- 1999.7.27).ロシア,リャザン,ヴォルィニ村の生まれ.
父はサンクト・ペテルブルグの中学の校長で母は同校の教師.1929年にレニングラード大学入学,物理学科に進む.1930年から光学研究所で働く.そこでデローネに数学,特に幾何を学び,フォックから物理を学んだ.
1932年からレニングラード大学物理学研究所に移り,1933年に理論物理で学位取得.
数学では凸多面体や凸体の混合体積などの内的幾何学を,量子力学では交換関係などで仕事をする.博士の学位は加法的集合関数に関するもの(1937).1937年レニングラード大学幾何学教授,1952年に学長.1964年にノヴォシビルスク大学に移り,ソ連科学アカデミー・シベリア支部数学研究所の幾何部門の長になる.
山登りが趣味で,50歳の誕生日にはパミール高原に遠征.著書多く,ロバチェフスキー賞(1951)やオイラー賞を受賞.
[モ体] トップ
アロン(Noga Alon.)
イスラエル,テル・アヴィヴ大学教授.グラフ理論,組み合わせ論. [天27, 29, 32] トップ
アロンホルト(Siegfried Heinrich Aronhold, 1819.7.16-1884.3.13.)
ドイツ,アンゲンブルグの生まれ.
ドイツの多くの大学に勤務.代数形式の不変式論,微分方程式論,楕円関数論. [ワ2, 8]トップ
アンガー(Peter Ungar.)
ニューヨーク大学クーラン研究所を退職.組合せ論. [天9] トップ
アンティフォン(Antiphon, 紀元前480--411).
恐らくはギリシャのアテネに生まれ,アテネに死す.
ソフィストで,雄弁家で政治家.だが,3人のアンティフォンがいたという説もあるが,同じ人だということにして述べておく.
殺人事件の刑事訴追をしたり,検察や弁護の技術を教えることもした.哲学書も書いたが,すべて断片のみ,しかも他の人物からの引用の中に散見するだけである.
数学に関しては,円の求積について,円に内接する正多角形の面積を求め,辺の数を倍々にすることによって円の面積との差がなくなって行くという,取りつくし法(搾り出し法とも言う)の原形のような議論をした.これはアリストテレスとその注釈者経由でしか残っていない.
アリストテレスは,彼の議論は「線分によっての求積」と言い,幾何に基礎を置いていないといって非難している.
シンプリキオスはアンティフォンが実際に求積を行ったと主張していると,誤解しているが,ヒースは,アンティフォンはそうは言っておらず,史上初めて取りつくし法を創案したことの意義を強く擁護している.取りつくし法は,この後,エウドクソス,アルキメデスと,厳密化・整備され,実用化されて行く.
トップ
アンドレーエフ(Konstantin Alekseevich Andreev, 1848.3.26-1921.10.29).
ロシアの幾何学者。ハリコフ大学(1873-98)、モスクワ大学教授(1898-)。解析幾何学の教科書、問題集は広く長い支持を得た。 [解II.6] トップ
アンペール、アンドレ・マリー(Andre Marie Ampere, 1775.1.20(22の説あり)-1836.6.10).
フランス、リヨン近郊ボレミューに生まれ、マルセイユに死す。
富裕な商人の子として生まれ、家庭教師についたほかは独学。神童を謳われ、12才までに知られていたすべての数学を学んだと伝えられている。革命の最中、父は断頭台に死す。リヨンで数学を教える(1796-1801)。ブール・カン・ブレスの国立中学校の物理・化学教師(1801)、同年リヨンのリセの数学教師、エコール・ポリテクニークの数学助講師(1805)、教授(1809-1828)、新設の大学制度の教育総監(1808-死)、パリ大学哲学講師(1819)、パリ大学天文学助教授(1820)、コレージュ・ド・フランスの実験物理学教授(1824-死)、アカデミー会員(1814-)。マルセーユに視察旅行の途次、肺炎で死ぬ。
電流の磁気作用のアンペールの法則は、1820年デンマークのクリスチァン・エールステッドの実験に刺激され、電気と磁気の統一理論を作ろうとしたものだが、法則を微分方程式の形に昇華したことが重要である。なお、このとき科学アカデミーでのアラゴー(1786-1853)による報告のあと、1週間で完成したという話が伝わっている。電流を測ることも彼の貢献であり、その強さの単位として彼の名前が残っている。日本では、アンペアという音訳が定着している。
最初の著作は『ゲームの数学理論』(1802)で確率論の先駆的研究。これにより就職が可能になった。接触変換論でのアンペールの変換や偏微分方程式論でのモンジュ--アンペールの方程式に名前を遺している。『解析教程』に述べられた失敗は頭の良い人に有り勝ちな思い込みか。森毅氏の本の題名じゃないけれど「まちがったっていいじゃないか」というものだろう。 [解III.9] トップ
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イースターフィールド(Thomas E. Easterfield.)
P.ホールの弟子.組合せ論.結婚定理の証明の簡易化. [天22] トップ
岩本(湯上)義和(Yoshikazu Iwamoto(Yugami).)
大阪理工科大学(現在,近畿大学)卒(1950).卒業後,大阪府立高校教諭を歴任し,現在は引退.π2の無理数性の証明. [天6] トップ
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