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平泉


一、本文  

三代の榮耀一睡の中にして、大門の跡ハ一里こなたに有。秀衡が跡ハ田野に成て、金鶏山のミ形を殘す。先高舘にのぼれバ、北上川南部より流るゝ大河也。衣川ハ和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落入。康衡等が旧跡ハ衣が關を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。國破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良
兼て耳驚したる二堂開帳す。經堂ハ三將の像をのこし、光堂ハ三代の棺を納め、三尊の佛を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に圍て、甍を覆て風雨を凌、暫時千歳の記念とハなれり。
五月雨の降のこしてや光堂

二、語釈

● 三代の榮耀
奥州藤原氏の清衡・基衡・秀衡の三代の栄華。秀衡の子泰衡の時に源頼朝に滅ぼされた。
● 一睡の中にして
一睡の夢の如く消え失せて、一睡の夢の如く短い間のことで、等の意。出典として、李泌の『枕中記』の「邯鄲の夢」、あるいは謡曲「邯鄲」があげられる。
謡曲「邯鄲」には、「さらば立ち越え一睡見うずるにて候」「何事も一炊の夢」とある。「一睡」は寝るという意味であり、元来は「夢を見る」という意味は含んでいない。本来は「一炊の夢」と書く。
● 大門の跡
毛越寺の南大門、毛越寺の南大門を中尊寺の南大門と錯覚した、毛越寺の南大門を高舘の大門と誤解した、金澤村の南大門を中尊寺・高舘・平泉のいずれかの門と誤解した、西木戸番所址を平泉の入口と解した、等の解釈があるが、特定する根拠がない。「随行日記」によれば、毛越寺を訪れた形跡はない。また、加澤(金澤村)を訪れてはいるが南大門を見たという記述はなく、加澤から平泉までの距離が三里ほどあることを考え合わせても、金澤村の南大門は適当ではない。
● 秀衡が跡
秀衡の居館の跡。いま平泉駅の北方、高舘の南に当る。平泉舘内にあって「伽羅御所」「嘉樂舘」(東鑑)といわれた。
● 金鶏山
金鶏山 高舘の南西に當れり。秀衡其象を富士山に擬し、高さ数十丈に築き、黄金にて鶏の雌雄を作り、此山上に埋めて平泉の鎮護とせしなりと云々(平泉志)。
「随行日記」には金鶏山を訪れた記述がある。
現在金鶏山と称する山はあるが、それが昔のままのものかはわからない。
● 高舘
義經籠居の城跡にて今半ハ畑となる。片岡・龜井・鷲尾等が戰死の跡は小松を植て昔を遺す。近き比此地に祖翁の碑を建、夏草やの短冊を埋てたんざく塚と云(菅菰)。
大門の跡から伽羅御所を通過して高舘に向かって歩みを進めた主人公は、この高舘の頂上に至って平泉の全体を眺望するように設定されている。
● 北上川
本邦有数の大河で、源を岩手県の北境に発し、奥州街道に沿いて、岩手を縦断しつつ南下し、盛岡花巻等を経、平泉で衣川を合しなお南流して石巻で石巻湾に注ぐ。平泉付近では、古くは北上川の流域はもっと東に離れていたものらしい。
● 南部
奥州のうちにて、津輕、秋田に隣る南部候の領地也(菅菰)。
● 衣川
名所なり。此川源二筋あり。北は上衣川村杳Vに出、南は清水大森に出で、同村百袋に至て二川相合し、中尊寺の後を東に流れ、北上川に落つ。衣川北上川ともに百年前の地圖を以て考合すれば、川筋甚だ異なるなり(平泉舊蹟志)。
衣川は、前九年の役の時に源義家が蝦夷の大将である阿部貞任を討伐するために訪れた地である。『古今著文集』によると、その際、義家が「衣のたてはほころびにけり」と詠み、貞任が「年をへし絲のみだれのくるしさに」と返したという逸話が残っている。芭蕉はこの歌のやりとりを念頭において衣川を記述したのではないか。
● 和泉が城
琵琶柵跡、戸河内村に在り。往昔貞任が後見成道が居城の跡なり。中尊寺の北にあたる。里俗此所を泉三郎忠衡が居所なりと傅へり(平泉舊蹟志)。
中尊寺の北十町という。
● 大河
北上川を指す。
● 康衡等が舊跡
康衡は泰衡が正しい。『東鑑』では伽羅御所の隣にあるとしているが、白鳥辺(新衣関)にあったという説もあり、その位置は特定できない。
● 衣が關を隔て
衣が関については旧関説と新関説があり、その位置についても、@平泉舘辺(泰衡らの旧跡)と南部口との間に旧関跡がある。A平泉舘辺(泰衡らの旧跡)と南部口との間に新関跡がある。B旧関跡(及び平泉辺)と南部口との間に新関跡がある。C平泉舘辺(泰衡らの旧跡)と新関跡との間に南部口がある。等の諸説があり特定はできない。
●南部口
南部地方からの出入口。
● さし堅め
厳重に警戒し
● 夷
奥羽・北海道にかけて住んでいた人々。えぞ、古くはえみしといい、訛って、えびすともいう。
● 偖も
偖は助言也。先きの文を請て、此後の文を解き出す心也。抑の字とかよへていささか異(道解)。
もは強意の助詞。
● 義臣
義経の臣下とする説、義経の臣下に限らず藤原氏一門も含めて鎌倉方に、反抗した者をさすとする説、直接には義経とその家来たちをさすがそれだけに限定することもできないとする説がある。
● すぐつて
義臣をえりすぐって、義経は忠義の臣をえりすぐって、義経の忠義な選り抜きの家来が、義経をはじめとしてえりすぐった正義の士たちが、義経をはじめとして選りすぐられた義臣が、等の解釈がある。
● 此城
諸註多く高舘とする。
● 功名一時の叢となる
勲功名声は一時のことで、今その跡はくさむらとなっているの意。
● 國破れて…青みたり
諸註、杜甫の詩「春望」を出典としてあげる。
● 笠打敷て
諸註、笠を敷いて腰をおろしの意としているが、笠を下に置いてで、尻の下に敷いたのではなかろうという説もある。
● 時のうつるまで
長い間。かなり時間のたつまで。
● 泪を落し侍りぬ
芭蕉の用例として、「人の教ゆるにまかせて泪を落し」(『奥の細道』飯塚の里)、「羇旅の労をわすれて泪も落つるばかり也」(『奥の細道』壷の碑)などがある。
● 夏草や兵どもが夢の跡
『生駒堂』『渡し船』『泊船集』には「兵どもの」とある。
● 卯の花に兼房みゆる白毛かな
『續雪まろげ』には「白毛」が「白髪」とある。
● 兼て
あらかじめ。前もって。かねがね。
芭蕉の用例としては、「かねてきく仲の望の日」(小文庫、堅田十六夜之弁)、「届状不届候よし兼而承候間」(杉風宛)、「かねて存候とは相違い」(菅沼外記宛)などがある。
●耳驚したる
話に聞いて驚いていた、または、驚くべきものと話に聞いていた。
「耳」の用例としては、「耳馴たるやうに覚候」(十八番発句合)、「覚え侍るは僻耳にや」(常盤屋之句合)、「耳にふれていまだめに見ぬさかひ」(『奥の細道』第一夜)、「秋風を耳に残し紅葉を俤にして」(『奥の細道』白川の関)、「耳をたれてこれを聴けば」(真蹟、蓑虫跋)などがある。
● 二堂
中尊寺境内の経堂と光堂。
● 開帳す
厨子の帳を開き秘仏などを人々に拝ませること。随行日記によると、経堂は開帳しなかった。
● 經堂
金色堂に隣りて西北にあり。(以下略)(平泉志)
● 三将の像
実際は経堂内にはない。
● 光堂
中尊寺金色堂のこと。
● 三代の棺
藤原氏三代の棺。昭和二十五年の学術調査によると、ここに納められていたのは、清衡・基衡・秀衡の全身ミイラと、通称忠衡(実は泰衡らしい)の四代の遺骨であった。
● 三尊
阿弥陀・勢至・観音の三尊。
● 七宝
仏教でいう七種の宝。経文により多少の異同がある。
● 珠の扉
珠玉をちりばめた扉。珠玉で飾った扉。
● 既に
もうとっくに。もう少しのところで。あやうく。
● 頽廃空虚の叢
頽廃ハ、クヅレスタルト訓ズ。空虚ハ二字トモニムナシト訓ズ。(菅菰)
くずれ破れて後に昔のなごり一つも残さず草原となる。
● 四面新に圍て
周囲を新たに囲んで。
● 甍
屋根瓦。瓦葺きの屋根。
● 暫時
「しばらくは」「とにかくしばらくは」「暫くことながら」などと訳されているものが多い。
● 千歳の記念
「後世に長く残るべき記念の意ではない。古い記念物として一時保存されるの意」「千年以来の記念物」「遠い昔をしのぶにたる姿」などと訳される。芭蕉の用例としては「爰にいたりて疑なき千歳の記念」(『奥の細道』壷の碑)などがある。
● 五月雨の降のこしてや光堂
曾良本に初案「五月雨や年≪降も五百たび」が見える。

三、現代語訳

四、解説    随行日記へ  画像ライブラリへ

平泉の段は前半部と後半部に分けることができる。すなわち、「兼て耳驚したる」以降が後半部である。
前半部では、主人公は高舘から平泉の地勢を眺めている。しかし、「大門の跡」「康衡等が旧跡」「衣が關」はその所在が特定できず、「金鶏山」も昔のままのものかどうかはわからない。このように不確かなものばかりではあるが、主人公は決して事実確認のために考証的に見ているのではない。所在がはっきりしない遺跡、すなわち「無いもの」を、薄弱ではあるが根拠とし、栄枯盛衰を見て詠嘆しているのである。
ところで、「笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」の部分は明らかに脚色であるが、ここは夏草の中、つまり「夢の跡」に身を沈めて「夢の跡」を体験し、いにしえの兵たちの夢を心に蘇らせようとしているのであろう。その際、夏草の上に長時間座っていると尻が濡れてしまうこともあり、笠を敷きその上に腰を下ろしたのである。
前半部が「無」について書かれているとするならば、後半部は「有」について書かれていると言えるであろう。しかもその「有るもの」は自然に残ったのではなく、「三將の像をのこし」「三代の棺を納め」「三尊の佛を安置す」「四面新に圍て、甍を覆て風雨を凌」とあるように、人々がその努力によって残したものである。そして清衡たちのミイラまで残そうとした人々の思いは天をも動かし、まるで自然の営みまでもが経堂と光堂を残そうとしているように思える。このことに対する感動が「五月雨の降のこしてや光堂」の句にあらわれている。
平泉の段での重点は後半部に置かれている。今まで旅をしてきた各地では失われてしまった遺跡などが、仙台の最奥である平泉では人々の努力によって残っており、前半部で詠嘆していた主人公が大いに感激しているからである。各地では無くなってしまったものが平泉には有る、しかもそれは人々が努力によって残したものだからこそ、平泉の段における主人公の感激は一段と調子の高いものになっている。
しばしば、前半部には「滅の美しさ」が描かれており、前半部こそが平泉の段の重点であると解釈される。しかしそれでは後半部での感動へと話が続かなくなってしまう。よってこの解釈は誤りであると言わざるを得ない。
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